どくしょかんそうぶん『してきしょゆうろん』

 『私的所有論』という本がある。これに巡り合ったのは多分、大学二年生の夏かそこらの頃である。知的にまだ多感だった僕は、見えない何者かにあたかも張り合うかのように、ニーチェだの倫理だの存在が云々だのといった、妙に小難しい本ばかり欲していた。そんな訳で、日頃から足繫く通っていたジュンク堂池袋店の、人文書を置いてある階でいつものようにうろちょろしていると、普段はそれほど見ることもなかった社会学コーナーの棚にふと目が行った。そしてこの本を見つけた。

 まずボリュームが異様だった。ここで見つけた版および現在出回っている版はいずれも第二版で文庫になっているのだが、やたら厚い。さっき測ったら4センチあった。ページも1000ページ近くある。そりゃあ(僕は読んだことはないけれど)京極夏彦の小説はこれよりもっと分厚いというし、そもそも本というのは厚さとかページ数とかで比較するものではないから、だからどうっていうこともないことではあったのだが、衒学的性向を持った僕にはやはりそれは(あまり良くないことだとは承知の上で)魅力的に思われた。しかしそれ以上に凄かった(と思った)のは帯にあったこの文言である。「この社会は、人の能力の差異に規定されて、人の受け取りと人の価値が決まる。それが『正しい』とされている社会である。本書はそのことについて考えようという本だ。もっと簡単に言えば、文句を言おうということだ。」恐ろしく挑戦的に思った。平等平等って言うけれど、何が平等なんだろうか、競争社会は果たして本当に平等なんだろうか、等々、社会のあれこれについて漠然とした違和感、疑問を抱きがちな人間にとっては非常に画期的な宣言であったことは言うまでもない。かくして一目ぼれした僕はためらうことなくこの『私的所有論』を手に取り、迷うことなくレジまで持っていってしまった。

 早速しっかり読んでみようと本を開いてみるが、当然のことながら出鼻を挫かれる羽目になった。まず難しい。いきなりジョン・ロックや経済の話が出てくる(経済とはいってもパレート最適や市場の失敗などのごく基本的な点にしか触れられていないのだが)。もちろんそんな素養を持ち合わせていなかった自分にとっては何ですかそれといった具合だったので、そもそも話が始まらない。様々な登場人物に翻弄される僕を尻目に議論は混迷を極める。それに加えて注が長い。今思えば全部まともに読むことも無かったのかもしれないが、僕はとにかくいちいち注に当たっていた。一つの注で長いものは3~4ページに渡るものもあった。気づいたら最初から良く分かっていない話の本筋が益々分からなくなってくる。そんなこんなで、最初のうちは100ページかそこらで音を上げてしまった。自分にはまだ早いんだなと思った。だが、いずれ絶対に読破してやるとも決心した。以上がやや感傷的な『私的所有論』との出会いの話である。

 『私的所有論』は、立命館大学先端総合学術研究科教授の立岩真也((による初の単著である。この本の初版が発行されたのは1997年のことで、当時の日本の生命倫理学の分野としては非常に画期的な業績だったらしいのだが、業界の人間でない僕は残念ながら、稲葉振一郎による解説などによってしかこのことを窺い知ることはできなかった。とはいえ、先程も言ったように第二版が発行されているし、ごく最近では英訳版も販売されているようだから、かの著書の価値が認められた上でこのような学問的な要請があるのは確かであるし、実際、本書の議論は従来なされてきたそれとは一線を画するように思う。「何が私のもとにあるものとされるのか、そして私はそれ(及びそれから生み出された生産物)を譲渡、交換することはどこまで許されるのか」という抽象的な問いを、「他者」という概念を通じて、代理母、人工妊娠中絶、能力主義、優生学といった具体的な問題へと敷衍していく本書は、難解でありながら痛快でもある。また、巻末に付されている膨大な文献リストも、それ自体評価されるべき大事業の一つであるに違いない。

 なぜ今『私的所有論』について書こうと思ったのかというと、この本で考えられている問いとそれに対する答えが、この2016年でも、いやこの2016年だからこそ重要な意味を持っていると考えるからである。今年七月に起きた相模原障害者施設殺傷事件をきっかけに人々は、これまで何度も繰り返されては過ぎ去られてきた問題、優生思想を巡る問題に再び直面することになった。「障害者は生きている価値がない」という犯人の主張は、残念なことに決して一部の異常者が抱く極端な発想などではなく、例えばいわゆる「自然淘汰」といった言葉によって、暗に肯定され、支持されているのが現状である。何が人の価値とされるのか。持っているもの(の量と質)の多寡か。とすれば、より少なく持って生まれてしまった人は価値がないのか。『私的所有論』は、この問題について再考するための一冊でもある。

 と、ここまで来て『私的所有論』の具体的な内容に関してほとんど触れてこなかったが、それというのも僕がこの本の内容をすっかり忘れてしまったからである。とはいえ、内容を覚えていない本についてそのまま言いっ放しになってしまうのも宜しくないだろうから、ちまちまと読み進めてここに勝手に要約でもまとめてみようかと思うのである。これは誰のためというよりも、誠実たれという漠然とした規範意識、および自己満足に基づいたものだが、普段ものをろくに書かない僕にとってはちょうどいい文章の練習になるだろうとも思った。というわけで、三日坊主になるだろうことは承知の上で、つらつらと垂れ流すことになるでしょうが、どうぞ僕のことはそっとしておいて下さい。

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