雑記

鶏が先か卵が先か、みたいな話になるが、頭が働かないせいか思考がまとまらず、結果として思考を文章化できない、もしくは、疲れから思考を文字化する営みを怠っているせいか、思考がまとまらない、これらのいずれかに陥っている。いや、というよりも、その両方が起きている、というべきかもしれない。これら二つの出来事は双対をなしている。思考によって表現は促され、また、表現によって思考は培われてゆく。だから、今自分に必要なのは、できないなりにも動かない頭を振り絞り、無理にでも動かない手を動かすことで、思考と表現の回路を活性化することなのであろう。

ただ一方で、表現は他者を害するということは、(極めていい加減にではあるが)以前にも書いた通りである。それだから、必然思考には、表現を介する限りにおいて他者への害が付随する。とりわけ、稚拙な思想は粗雑な言葉となり、他者を往々にして傷つける。ではどうすればいいか。しばらく考えていたが、答えは出ない。少なくとも、すぐ答えを出すべき類いの問いではまずありえない。表現が害悪であることはそうかもしれないが、その上でこういった現実とどう折り合いをつけるのか、僕には未だわからないでいる。とはいえ、少なくとも言えることは、たとえ害悪を撒き散らし続けようとも、人間は表現することを継続しなければならないということである。というのも、自分の心身に積み上がった害悪を振り払うのも、やはり表現であるからである。

近況報告

ここ最近はここ最近で目まぐるしく状況が変わっており、転職したり新たな副業を始めたり、家族と一時険悪になったり、はたまた新たなパートナーができたりといった具合で、もし今から数年ぶりに会う友人に近況報告をするならば、おそらく一昼夜では語り切れないだけの出来事が起きている。こんなわけだから、職業人生や愛についても必然、あれこれ考えないわけにはいかず、とはいえ考えてみたところで結論が出るわけでもなく、ただただ逡巡を重ねるばかりの日々である。とはいえ、逡巡してばかりで立ち止まっては何にもならないから、状況整理も兼ねて、ここで簡単に近況を報告したいと思う。

仕事について。なんやかんやで無事に社労士事務所で3ヶ月勤めることができた。たった3ヶ月の間に、定常的な事務手続きはもちろん、顧問先への訪問や質問対応、いわゆる情シス的業務、業務改善など様々なことを経験させられた。給与だとか仕事の振り方だとか、思うところは多々あるのだが(これらについてはこんなところでぐちぐち言うのでなく近いうちに面と向かって言おうと思う)、幸いなことに一緒に働く方々がとてもいい人ばかりで、その点においてはストレスなく働けているので、まあなんとかやっていこうと思う。その他にも、なんという偶然か、自分の経歴がとある大学の先生の目に留まり、色々と話が調った結果、LLMに関する研究業務に携わることとなった。自分はこれまで方々を彷徨いながら処を定めず生きてきた手前、決して褒められた人生を歩んでいないものだと思っていたが、こうして何かのご縁で自分の経歴を活かせることがあるのだと言うことを知り、まあ今までの人生も間違っていなかったのだなと再認識した。

家族について。詳細はいつか書くかも知れないが、主にお金の件で母親と揉めた。だいたい自分が悪い話だったとはいえ、さりとて道徳に反した行動をしているわけでもなく(ただ、徳の低い行いであったことは間違いないだろう)、言ってみれば自己責任で済む話だったのだが、放蕩癖のある父や祖父の話を持ち出された挙句、周りはお前を利用しようとしているのだから縁を切れといったことを言われたのは流石に堪えた。確かに自分は言葉を字義通りにしか受け取れない人間だから騙されやすく、現に色々と利用されてきたのも事実であるし、嫌と言うほど悔しい思いをしてきた。ただ、本当に素朴な話として自分は人に指図されて生きたくないから、その限りにおいて苛立ちがあったし、自分が信用している人々を悪し様に言われるのは、本当はそんなことはないのに騙されようとしている自分と、本当はそんなことはないのに騙そうとしている友人ともども貶されてるようで、本当に悲しい気持ちになってしまった。幸いしばらくしたら普通に口を聞けるまで関係は持ち直したが、とはいえそれ以来、実家に足を運ぶ気が起こらず、また連絡するのも幾分気まずく、そのまま数ヶ月が経っている。今後どうしようか、特段見当はついていないが、ひとまずはこの平行線が続くのだと思われる。

恋愛について。現在、とある男性とお付き合いしている。初めて互いを知ったのはほんの1、2ヶ月前のことなのだが、LINEのやり取りや実際に会ってした会話を通じて瞬く間に意気投合し、先日正式にお付き合いする運びとなった。今のパートナーは非常に聡明な人で、本当に会話していて楽しい。また彼は、ロシア語その他の語学が堪能で、ロシア語に関する様々な興味深い話をしてくれるため、言語学出身としては非常に刺激的な示唆を受けている。さらに彼とは酒や食べ物の趣味も合うので、色々な名店を巡って共に舌鼓を打つ経験は非常に心地のよいものである。彼は関東在住のため遠距離恋愛になってしまうのだが、当分月1〜2回はお互いの居住地を往来することになるので、それほど寂しい心地はしない(無論できることなら毎日会いたいが)。この巡り合わせに感謝しつつ、末長く幸せに行きたいものである。

概要としては以上のとおりだが、本当はここには書き切れないだけのことが起きている。詳しくは直接お会いできる機会にお話しできたらと思う。

コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について

「覆水盆に返らず」という言葉がある。一度やってしまったことは取り返しがつかない、という意である。確かに世の中は取り返しのつかないことに満ち満ちている。とはいえ、私たちは、たとえオレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまっても、落ち着いて床を拭いて(場合によってはカーペットを洗濯する羽目になるかもしれないが)、再びオレンジジュースを冷蔵庫から取ってきてコップに注げばそれで済むということを知っている。ただ、本当にそうか。

僕は覚えていないが、自分がごく幼いころ、オレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまったとき、別に誰に怒られたわけでもないのに「もうおしまいだあ~~~」などど叫びながら泣きまくっていたらしい。単なる子供らしいエピソードと言えばそうなのだが、僕にとっては今でも自身の世界認識に関する象徴的出来事だと思っている。 “コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について” の続きを読む

害悪論―記号作用の暴走に関する試論―

 

※おことわり これは未完成の断片です。また、勢いで書き下したものなので矛盾だらけですし、用語も不統一です。(2022.10.18)書いてから一年以上経って読み返してみると、考えていることが驚くほど全く変わっていないことが分かったので、前述のおことわりのような生ぬるいことはすっかり捨て去って、できる限り考えを深めようと思った。

履歴
(2022.10.18)命題に番号を振り、一部追記した。別にスピノザやウィトゲンシュタインのまねごとをしたいのではなく(当時そのようなものに陶酔していたことは認める)、今後の参照の便宜のためである。

 本論では、表象、記号、個体、属性、種を所与のものとする。(22.10.18)というか、疑うことの意義の乏しいものとして、それらの存在を素朴に認める。

1.1 表象の発出は、意思を前提としない。意思を背景としない表象がある。送り主の存在しない表象がある。

1.2 発出された表象は、受取手を前提としない。宛先の存在しない表象がある。

1.3 宛先も送り主も存在しない表象があり、それはすなわち自然、世界である。

1.4 表象の内容は、送り主の意思に依存しない。テキストは遊離する。

1.5 記号は、世界を何らかの仕方で代理する表象である。 “害悪論―記号作用の暴走に関する試論―” の続きを読む

僕の自己肯定感を台無しにした言葉への呪詛

僕はひたすらに自己肯定感が低い。幾度も友人や親族に不思議がられるのだが、とにかく自分には価値がない、自分の為したことには価値がないと思ってしまう。さらに言うなら、無価値どころか有害とさえ思うこともある。こうなってしまったのは、恐らく生来的なものがベースにあるのだろうが、それ以上に、ある強烈な出来事も関係していると、今では思っている。あの出来事によって、どれだけ自分が振り回されたか知らず、そして最近も、希死念慮という形で、安寧の日々を台無しにされた。こうやって、日々の健やかさを害される度に、様々な人に対してや、Twitterのタイムラインに愚痴を吐いて気を紛らわしていたのだが、やはり、音声言語やツイートのように、外界に放たれるや直ちに姿を消してしまう媒体を用いても、その時はいいのだが、心に留まらないから、いつだかにまた苦しみがぶり返してしまう。なので、進まぬ気を奮い立たせて、書くことにした。恐らく、この話聞いたことあるよ、という人が多いかもしれないが、左記のようなわけがあるので、どうかご了承いただきたい。 “僕の自己肯定感を台無しにした言葉への呪詛” の続きを読む