僕を軽蔑する内なる僕について

これまでの経歴やら何やらを鑑みると、自分は決して褒められた生き方をしてきたわけではないのだが、とはいえ人は褒められるために己の人生を生きるのではないし、生き方などひとそれぞれだろうから、徒に恥じ入ることもないのだろう、そういう当たり前といえば当たり前の事実に気付いたのはつい最近のことである。かつての僕は、いつも誰かに後ろ指を刺されているのでないかと恐れ、他者と劣っている自分を恥じたが、僕を指差し嘲笑うこの者はその実、明るい未来への期待に胸を躍らせていた、というか、目前の理不尽な現実から逃避するためにも未来に一縷の希望を託さざるを得なかった幼い頃の自分なのである。この自分(彼)は絶えず過剰な期待、つまり、以前よりも確実に幸せになって欲しい、以前よりも確実に強く聡明であって欲しい、そういった期待を、その時々を生きる僕に投げかけており、僕は僕でその期待に応えるよう努める気力があったので、彼を悲しませることなくなんとか生きおおせてきたのだが、いよいよ立ち行かなくなってくると、彼はひどく落胆した。そして僕を軽蔑した。僕は恥と不安で長いことうずくまってしまったが、事の次第を理解するにつれ、僕は彼を諭しかつ癒さなければならないのだと気付いた。すなわち、僕はあなたと同じように不確実な現実を生きなければならない以上、万事において上手く生きることは不可能なのだということ、それはそれとして、そうあらざるを得ないことをもって未来を悲観する必要は全くないのだということ、この二つを彼に知らせなければならないのであった。僕はそれを彼に知らせた。彼は可哀想なほどに真面目だったから、驚くほど聞き分けが良く、すぐさま軽蔑をやめた。とはいえ、頭では理解しても心からそう確信するのは容易でないから、いつまた癇癪を起こすか分からず、これからも引き続き彼との対話が続くのだと思う。しかしそれは、これまで長らく彼のことを顧みず生きてしまったことを考えれば、仕方のないことである。虚勢を張って幸福な強者、成功者を気取るのでなく、ありのままの姿で彼に接すること。これによってのみ、彼は真の幸せや強さ、聡明さを理解するのであろうし、彼がそれらを理解して初めて、僕は真に自分の人生を迷いなく堂々と生きることができるのであろう。

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