まつのべの取扱説明書

この文章が書かれた経緯

自分はADHDと双極症の両方を背負っている。それぞれどういったものなのかは後程説明するとして、なんで今更それらに触れようと思ったのかというと、いま、大変困っているからである。これまで自分は、ADHDとも双極症とも、なんとか共存できていると思っていた。しかし、ここ最近の自分の振舞いを見るに、どうもそうではないらしいと気付いた。仕事もまともにできていないし、プライベートも相当荒れていた。預金こそボーナスが出たから何とかなっているが、いつこれが底をつくかもわからない。これはほんとうにまずい。何とかしないといけない。そう思うようになってきた。

ここで、単に己の意志薄弱さに責を帰して嘆いても仕方がない。もともと自分にはそういう特性、つまり、ADHDと双極症が自分の傍らにいたのだった。そして悪さをしているのはきっとこの二つだ。幸い、これらとうまく付き合うためのノウハウは多く蓄積されているから、これを利用しない手はない。

しかし、これを独力で実践するのは本当に大変である。この世にはあらゆる誘惑がある。この無数の誘惑に抗いながら、生活を整えるのは、衝動性の強い自分には困難である。ならばどうするか。人に頼るしかない。人は人と共に生きる生き物である(アリストテレスの「人間は社会的動物である」という言葉を思い出すべきである)。調べると分かるのだが、ADHDや双極症に限らず、すべての発達障害(神経発達症)や精神疾患には周囲の理解・支援が欠かせない。幸い自分には親しい方々が多くいるから、そういった人々の力を借りてこの苦境を乗り越えようと考えた。本稿は、このような動機のもと書かれている。

全体の概要を説明する。まず、忙しい人向けにこれだけは理解していただきたいという内容をダイジェスト版で記した。そのあと、ADHDと双極症の簡単な説明をした後、日常で注意すべき事項について、飲酒、規則的な生活などいくつかの論点から解説する。特に、自分が目下苦しんでいる問題で、ADHDと双極症に由来するものとしては、「自制心の欠落」と「躁鬱の波」がある。本取扱説明書では、これらふたつに特に焦点を絞って、僕の取り扱い方を述べたいと思う。

ところで、あくまでもADHDと双極症への対処は自分自身の地道な努力がもっとも重要である。本稿は自分の特性の説明や読者へのお願いが中心となるため、ともすれば「自己弁護に満ちている」、「他力本願に過ぎる」という印象を与えるかもしれない。だが、念のため申し添えるが、何も周囲におんぶにだっこというつもりは決してなく、自分にできることを最大限こなしたうえで、背景となる知識や、周囲にお願いできる部分をここに記し、あわよくば協力していただく、ということを目指している。ベストなのは、僕自身がすべきことも共有した上で、皆さんにお願いしたいのは次の通りです、と提示することなのだろうが、それをすれば本稿は大部に渡ってしまうし、すでに多くの医師や心理職によって書かれたものを参照すれば済むことでもある。そのため、あえて「取扱説明書」というスタイルを選ぶに至った。この点、ご理解いただけると幸いである。

忙しい人向けのダイジェスト版

  • ADHDも双極症も、現代の医療では治りません。うまくお付き合いするほかないものです
  • ADHDは我慢がききづらいです。あまり誘惑はしないでください
  • 躁状態は一見幸せそうに見えるんですが、その後の落ち込みやエネルギー切れが激しかったりするのであまり良くありません
  • あまり酒を飲ませないでください、薬が効かなくなったり、うつ転したりします
  • 夜更かしさせないでください、規則正しく生活させてください、躁転します
  • 元気そうにしていても、無理はさせないでください、うつ転します
  • 疲れていそうなときはそっとしてください、鬱が悪化します

ADHDと双極症って結局何なのよ

ADHD

厚生労働省によれば、「ADHD(注意欠如・多動症)は、「不注意」と「多動・衝動性」を主な特徴とする発達障害の概念のひとつ(https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-04-003.html)」である。もともとは幼少期の発達障害として認知されていたが、近年では幼少期にADHDを持っていた人の半数以上は成人してもADHDの諸症状を継続して持っていると考えるようになった。幼少期は特に何も診断されなくとも、大人になるにつれて、物事を順序だてて行うのが困難、忘れっぽい、落ち着きがない、等の症状が目立つようになり、最終的にADHDと診断されることも増えている。

ADHDには多様な症状があるが、本稿で一番重要視したいのは「衝動性」である。要するに「突発的に現れる、何かをしたいという欲求を抑えられない」ということである。例えば、仕事をしている時に、ふと手の爪が伸びていることに気付くと、いてもたってもいられなくなり、おもむろに爪を切り、そういえば足の爪も伸びてるな、ということで足の爪も切り、ゴミ箱に爪を捨てると、そろそろゴミ箱がいっぱいだな、といってゴミ袋を交換すると、今度は自分の部屋が散らかっていることに気付き、以下略、といった具合である(「いやそもそも身の回りがちゃんとしてないのが悪いんだろ」というのは尤もな指摘である。衝動が向かう事物を減らすために環境を整えるのは必須の対応策である)。これくらいならまだ些細なことであるが、目先の快楽に目がくらんで長期的に不利益をもたらすことも往々にしてあり、こうなってくるといよいよ問題である。例えば、二日酔いするのを分かっていながら深酒する、自己研鑽に使うべき時間をだらだらSNSに費やしてしまう、遊びの約束を優先してより重要な用事をすっぽかす、等である。

人によっては「こんなのただの我慢ができないだけのことでしょ」と思うかもしれない。しかし、近年のADHDに関する研究によれば、正常な人の脳とくらべて、ADHDを持つ人の脳は、その構造や活動の挙動に違いがあるとしている。神経伝達物質の働きが弱いことも一つの原因として考えられている。要するに、多分に器質的なものなのである。この点、僕が意志薄弱だということで責めないで頂けると大変ありがたい。

双極症

かつて躁うつ病や双極性障害と呼ばれた双極症は、文字通り憂鬱な状態が続く抑うつ状態と、(場合によっては過度に)活動的な躁状態が交互に訪れる病気である。うつ病との鑑別が難しいとされており、当初うつ病と診断され、寛解したと思ったら再びうつ症状が現れ、後々双極症であることが発覚する、というのはざらだそうである。双極症は躁状態の程度によってI型(激しい躁)、II型(比較的穏やかな躁)に分類される(無論これはざっくりした説明である)。

抑うつ状態については想像がつきやすいだろうから説明しないにしても、さて躁期とはいったい何なのだろうか、健常な人の生活とどう異なるのだろうか。一般に躁は、以下のような極端な思考・行動によって特徴づけられる(あくまでもい一例である)。

  • 全能感、アイデアが次々と湧いてくる感覚
  • 極端に短時間な睡眠時間
  • 饒舌
  • 些細なことで怒り出す
  • 浪費
  • 危険な性行動

I型の場合、上記の極端な思考・行動が家族、友人に危害を及ぼし、警察・病院への通報・連絡を契機として双極症が発覚するということが多いようである。II型の場合はそこまで極端ではないのだが、やはりそれなりに軽率な行動などに出てしまうこともある。

往々にして、躁状態の時は多幸感を伴う。特に、自分のような比較的躁が穏やかな場合、周りも「ああ、元気そうだな」程度にしか捉えてくれないことがある。そうなると、自分も周囲もあまり問題と感じなくなるのだが、とはいえやはり、上に述べたように軽率な行動がないわけではないし、なにより躁状態はエネルギーを消耗するので、エネルギー切れとなった後の落ち込みが激しくなる傾向がある。

ADHDと双極症って、治るんですか?

結論としては、いずれも認知行動療法や薬物療法で症状を緩和することができるが、根本的な治療については現代では困難とされている。

ADHDについてはそもそも脳の発達度合の凹凸の問題であり、何らかのトレーニングや投薬はあくまで対症療法的なものにすぎない。とはいえだからといって、自分の特性を理解した上でそれとどううまく付き合っていくか、という問題がこの社会で生きる上での重要さを失うことはない。大事なのは、衝動が訪れた際に、それをどう御するか、である。

双極症については、炭酸リチウム(リーマス)等が躁鬱の波を抑えるのに有効な薬物とされているが、投薬を止めると大抵は波が再発するため、基本的にずっと薬を飲み続けないといけない。しかも、仮に適切に服薬しても、生活の乱れ、例えば徹夜などをきっかけとして躁状態に移行してしまうこともある。しかし逆に言えば、薬をちゃんと服用し規則正しく生活を送っていれば、安定状態を保つことができるし、もし気分の変動があったとしても、それを最小限に抑えることができる。無論、訪れてしまった気分の変動にうまく対処するスキルも重要である。

まとめれば、服薬や規則正しい生活を怠らないことと、ふとした時に衝動・躁や鬱の波が訪れた時にどう対処するかのスキルを磨くこと、この二つが肝要である。

日常生活で注意すべきこと

酒の与える影響

だいたいの精神科の薬に共通して言えることだが、アルコールは双極症に用いられる薬の作用を予測できない方向に向かわせる可能性がある。飲酒をトリガーとした抑うつ状態や躁状態への移行もありうる。アルコールの摂取量は最小限にすべきである。また、僕のような一部の患者は、抑うつ状態には気分を紛らわせるために、躁状態には多幸感を持続させるために飲酒することがあるが、こういった飲み方はアルコール症への発展が懸念される。特に自分のようなADHDを持つ人は抑制が利かないことが多く、普通の人よりリスクが大きい。

そのため、具体的には以下の点をお願いしたいです。

  • 極力酒の席には誘わない
  • 飲むとしても、量は最小限にする
  • 酒の席で、僕が飲みすぎそうになったら止める

規則正しい生活

双極症の波を穏やかにするには、規則正しい生活が必要不可欠である。たった一日の徹夜でも躁転することがある。また、ADHDの衝動性から、ついつい誘惑に誘われて夜更かししてしまうことが多い。また、双極症以前の問題として、朝の時間帯は多くの人にとってより生産性の高い時間帯であるから、この時間帯をより多く確保するためにも、規則正しく生活を送ることは重要である。

そのため、具体的には以下の点をお願いしたいです。

  • 深夜に及ぶイベントには誘わない
  • 深夜にSNS等のメッセージは送らない

疲れについて

特に躁状態の時は、自分の感じているストレスや疲れに鈍感で、無理をしてしまうことが多い。また、本稿では触れていなかったが、ADHDは過集中(興味のあることに過度に集中してしまう)の傾向があるため、この場合も疲れを自覚しづらい。もし疲れが蓄積したことをきっかけに抑うつ状態に移行してしまった場合は、無理をせず、時間をかけて気分を整える必要がある。

そのため、具体的には以下の点をお願いしたいです。

  • 本人が元気そうにしても、決して無理はさせないでください
  • 疲れていそうな場合は、そっとしておいてください

さいごに

とにかく自分の生活をどうにかしなければ、という気持ちで一心不乱に書いたら、かなりの分量になってしまった。ここまで読んでいただいた方にはただただ感謝に堪えない。今後、いろいろ交流を続けるに当たり以前と大きく変わる部分があるため(特に飲酒)、最初は困惑する方もいるかもしれないが、どうか僕のためだと思ってなんとかお付き合いいただきたい。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

憂鬱なときに聴きたい憂鬱な曲10選

はじめに

愉快なときには愉快な音楽を聴くように、憂鬱なときには憂鬱な音楽を聴くのがふさわしい。気持ちの塞いでいるときに、無理に明るい曲をかけたところでただただ疲れてしまうのであって、こういうときこそ憂鬱に耽溺し悲嘆に暮れるべきなのである。そんなわけで自分が憂鬱なときにいつも聴いている曲の中からおすすめを10曲抜粋し、紹介することとしたい。

Ralph Vaughan Williams “Whither Must I Wander”

近代イギリスの代表的作曲家による歌曲”Songs of Travel”の一曲。歌詞は冒険小説『宝島』等で有名なRobert Louis Stevensonによる。暖かさに包まれたかつての日々を過ごした旧家を求めて荒野をさまよう旅人の歌。旋律もさることながら哀愁を誘う歌詞にも注目されたい。

Ralph Vaughan Williams “Bushes and Briars”

同じくVaughan Williamsの男性四部(SSBB)合唱曲。イギリス民謡に由来する。恐らく若い男女の失恋を歌った曲。悲しさの中にもどこか瑞々しさを覚えるのは自分だけか。

Josquin Des Prez “O Virgo Prudentissima”

Josquin Des Prezは15-6世紀ルネサンスのフランスの作曲家。ミサ曲やモテットの他、数多くの世俗曲も残している。本曲はモテットのひとつで、「おおいと聡明なる乙女」を意味するラテン語のタイトルは無論イエスの母マリアを指す。

Solage “Fumeux fume par fumée”

アヘンを吸う者を歌ったこの退廃的な曲は、アルス・スブティリオル (Ars subtilior)という過度に晦渋な技法の駆使された曲を伝えるシャンティ―写本に収められている。作曲者であるSolageについてはほとんど知られていない。

The three ravens

イギリス民謡。餌を求める三羽のカラスが見た先には勇敢な騎士の亡骸が横たわっている。そこに雌鹿に変身した騎士の恋人が現れ、彼を葬って彼女も自ら命を絶つ、といった話。

Aleksandr Glazunov “Elegy”

ヴィオラとピアノのための小品。9/8拍子。舟歌のようにたゆたうピアノの伴奏の上にヴィオラの慟哭が歌われる。

Claude Debussy “Cello Sonata”

後期のドビュッシーは室内楽曲を3曲残したが、これはそのひとつ。3つの楽章全体を通じて目まぐるしく表情を変えるチェロの旋律はある種の躁鬱的な趣を与える。今回紹介した動画はある意味模範的な演奏だが、Mischa MaiskyとMartha Argerichによる録音は文字通り狂気を感じさせる名演(ただし途中のノイズに注意)。

Gabriel Fauré “Madrigal”

中期Fauréの作品。歌詞はArmand Silvestreによる。四部合唱。男声と女声とが互いに呼び交わす形式で進行する。男と女の屈折した愛の嘆きと謗りが美しい合唱によって歌われる。

Georges Catoire “Meditation”

「四つの小品 op.12」の一曲。冒頭は淡々としかし深遠に音楽が進行するが、およそ中盤を境として、「瞑想」という曲名とは裏腹に興奮や恍惚の高みへと上昇してゆく。

J.S. Bach “Chaconne”

無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終曲。8小節の主題が提示された後、30の変奏が怒涛の如く押し寄せる。よく「ヴァイオリン一艇で宇宙を描いた」などと誇張気味に言われたりするが、とはいえあながち間違いでもないのかもしれないと思わせるほどの深遠な作品。

コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について

「覆水盆に返らず」という言葉がある。一度やってしまったことは取り返しがつかない、という意である。確かに世の中は取り返しのつかないことに満ち満ちている。とはいえ、私たちは、たとえオレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまっても、落ち着いて床を拭いて(場合によってはカーペットを洗濯する羽目になるかもしれないが)、再びオレンジジュースを冷蔵庫から取ってきてコップに注げばそれで済むということを知っている。ただ、本当にそうか。

僕は覚えていないが、自分がごく幼いころ、オレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまったとき、別に誰に怒られたわけでもないのに「もうおしまいだあ~~~」などど叫びながら泣きまくっていたらしい。単なる子供らしいエピソードと言えばそうなのだが、僕にとっては今でも自身の世界認識に関する象徴的出来事だと思っている。 “コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について” の続きを読む

害悪論―記号作用の暴走に関する試論―

 

※おことわり これは未完成の断片です。また、勢いで書き下したものなので矛盾だらけですし、用語も不統一です。(2022.10.18)書いてから一年以上経って読み返してみると、考えていることが驚くほど全く変わっていないことが分かったので、前述のおことわりのような生ぬるいことはすっかり捨て去って、できる限り考えを深めようと思った。

履歴
(2022.10.18)命題に番号を振り、一部追記した。別にスピノザやウィトゲンシュタインのまねごとをしたいのではなく(当時そのようなものに陶酔していたことは認める)、今後の参照の便宜のためである。

 本論では、表象、記号、個体、属性、種を所与のものとする。(22.10.18)というか、疑うことの意義の乏しいものとして、それらの存在を素朴に認める。

1.1 表象の発出は、意思を前提としない。意思を背景としない表象がある。送り主の存在しない表象がある。

1.2 発出された表象は、受取手を前提としない。宛先の存在しない表象がある。

1.3 宛先も送り主も存在しない表象があり、それはすなわち自然、世界である。

1.4 表象の内容は、送り主の意思に依存しない。テキストは遊離する。

1.5 記号は、世界を何らかの仕方で代理する表象である。 “害悪論―記号作用の暴走に関する試論―” の続きを読む

pythonの参照の考え方に頭を抱えた話

前提

古典ギリシャ語のテキストを表すには、大量のダイアクリティカルマークが必要になります(Polytonic Greekといいます)。今でこそUnicodeがあるおかげで表示自体は難なくできるけれども、昔はそんなことができる時代でもなかったし、そもそも今だって入力することは容易でないし、そういうわけだから、ASCII文字でギリシャ文字を表現しましょう、というのでBeta Codeというのが考案されました。例えばπροϊέναιであればPROI+E/NAIといった具合に表記します。今回、Beta CodeからPolytonic Greekに変換するプログラムを組みたいと思い、なんかいい感じのないかな~と、こちらからあるPythonコードを拾ってきたわけなのでした。 “pythonの参照の考え方に頭を抱えた話” の続きを読む