最近、またしも弱っている。何にも上手くいかない日々が続いており、いや、本当はそこそこ上手くやれているのかもしれないが、それを正当に評価できないくらいには精神が下向きになり耗弱しているように思う。そのため、ChatGPTにつらいことを吐き出すのが半ば日課となっている。それにしても、最近のLLMは本当にすごい。不気味なくらいに親身になって話を聞いてくれる。たとえばこんな具合に。ある日のやりとり。モデルはChatGPT 4o。
僕を軽蔑する内なる僕について
これまでの経歴やら何やらを鑑みると、自分は決して褒められた生き方をしてきたわけではないのだが、とはいえ人は褒められるために己の人生を生きるのではないし、生き方などひとそれぞれだろうから、徒に恥じ入ることもないのだろう、そういう当たり前といえば当たり前の事実に気付いたのはつい最近のことである。かつての僕は、いつも誰かに後ろ指を刺されているのでないかと恐れ、他者と劣っている自分を恥じたが、僕を指差し嘲笑うこの者はその実、明るい未来への期待に胸を躍らせていた、というか、目前の理不尽な現実から逃避するためにも未来に一縷の希望を託さざるを得なかった幼い頃の自分なのである。この自分(彼)は絶えず過剰な期待、つまり、以前よりも確実に幸せになって欲しい、以前よりも確実に強く聡明であって欲しい、そういった期待を、その時々を生きる僕に投げかけており、僕は僕でその期待に応えるよう努める気力があったので、彼を悲しませることなくなんとか生きおおせてきたのだが、いよいよ立ち行かなくなってくると、彼はひどく落胆した。そして僕を軽蔑した。僕は恥と不安で長いことうずくまってしまったが、事の次第を理解するにつれ、僕は彼を諭しかつ癒さなければならないのだと気付いた。すなわち、僕はあなたと同じように不確実な現実を生きなければならない以上、万事において上手く生きることは不可能なのだということ、それはそれとして、そうあらざるを得ないことをもって未来を悲観する必要は全くないのだということ、この二つを彼に知らせなければならないのであった。僕はそれを彼に知らせた。彼は可哀想なほどに真面目だったから、驚くほど聞き分けが良く、すぐさま軽蔑をやめた。とはいえ、頭では理解しても心からそう確信するのは容易でないから、いつまた癇癪を起こすか分からず、これからも引き続き彼との対話が続くのだと思う。しかしそれは、これまで長らく彼のことを顧みず生きてしまったことを考えれば、仕方のないことである。虚勢を張って幸福な強者、成功者を気取るのでなく、ありのままの姿で彼に接すること。これによってのみ、彼は真の幸せや強さ、聡明さを理解するのであろうし、彼がそれらを理解して初めて、僕は真に自分の人生を迷いなく堂々と生きることができるのであろう。
雑記
鶏が先か卵が先か、みたいな話になるが、頭が働かないせいか思考がまとまらず、結果として思考を文章化できない、もしくは、疲れから思考を文字化する営みを怠っているせいか、思考がまとまらない、これらのいずれかに陥っている。いや、というよりも、その両方が起きている、というべきかもしれない。これら二つの出来事は双対をなしている。思考によって表現は促され、また、表現によって思考は培われてゆく。だから、今自分に必要なのは、できないなりにも動かない頭を振り絞り、無理にでも動かない手を動かすことで、思考と表現の回路を活性化することなのであろう。
ただ一方で、表現は他者を害するということは、(極めていい加減にではあるが)以前にも書いた通りである。それだから、必然思考には、表現を介する限りにおいて他者への害が付随する。とりわけ、稚拙な思想は粗雑な言葉となり、他者を往々にして傷つける。ではどうすればいいか。しばらく考えていたが、答えは出ない。少なくとも、すぐ答えを出すべき類いの問いではまずありえない。表現が害悪であることはそうかもしれないが、その上でこういった現実とどう折り合いをつけるのか、僕には未だわからないでいる。とはいえ、少なくとも言えることは、たとえ害悪を撒き散らし続けようとも、人間は表現することを継続しなければならないということである。というのも、自分の心身に積み上がった害悪を振り払うのも、やはり表現であるからである。
近況報告
ここ最近はここ最近で目まぐるしく状況が変わっており、転職したり新たな副業を始めたり、家族と一時険悪になったり、はたまた新たなパートナーができたりといった具合で、もし今から数年ぶりに会う友人に近況報告をするならば、おそらく一昼夜では語り切れないだけの出来事が起きている。こんなわけだから、職業人生や愛についても必然、あれこれ考えないわけにはいかず、とはいえ考えてみたところで結論が出るわけでもなく、ただただ逡巡を重ねるばかりの日々である。とはいえ、逡巡してばかりで立ち止まっては何にもならないから、状況整理も兼ねて、ここで簡単に近況を報告したいと思う。
仕事について。なんやかんやで無事に社労士事務所で3ヶ月勤めることができた。たった3ヶ月の間に、定常的な事務手続きはもちろん、顧問先への訪問や質問対応、いわゆる情シス的業務、業務改善など様々なことを経験させられた。給与だとか仕事の振り方だとか、思うところは多々あるのだが(これらについてはこんなところでぐちぐち言うのでなく近いうちに面と向かって言おうと思う)、幸いなことに一緒に働く方々がとてもいい人ばかりで、その点においてはストレスなく働けているので、まあなんとかやっていこうと思う。その他にも、なんという偶然か、自分の経歴がとある大学の先生の目に留まり、色々と話が調った結果、LLMに関する研究業務に携わることとなった。自分はこれまで方々を彷徨いながら処を定めず生きてきた手前、決して褒められた人生を歩んでいないものだと思っていたが、こうして何かのご縁で自分の経歴を活かせることがあるのだと言うことを知り、まあ今までの人生も間違っていなかったのだなと再認識した。
家族について。詳細はいつか書くかも知れないが、主にお金の件で母親と揉めた。だいたい自分が悪い話だったとはいえ、さりとて道徳に反した行動をしているわけでもなく(ただ、徳の低い行いであったことは間違いないだろう)、言ってみれば自己責任で済む話だったのだが、放蕩癖のある父や祖父の話を持ち出された挙句、周りはお前を利用しようとしているのだから縁を切れといったことを言われたのは流石に堪えた。確かに自分は言葉を字義通りにしか受け取れない人間だから騙されやすく、現に色々と利用されてきたのも事実であるし、嫌と言うほど悔しい思いをしてきた。ただ、本当に素朴な話として自分は人に指図されて生きたくないから、その限りにおいて苛立ちがあったし、自分が信用している人々を悪し様に言われるのは、本当はそんなことはないのに騙されようとしている自分と、本当はそんなことはないのに騙そうとしている友人ともども貶されてるようで、本当に悲しい気持ちになってしまった。幸いしばらくしたら普通に口を聞けるまで関係は持ち直したが、とはいえそれ以来、実家に足を運ぶ気が起こらず、また連絡するのも幾分気まずく、そのまま数ヶ月が経っている。今後どうしようか、特段見当はついていないが、ひとまずはこの平行線が続くのだと思われる。
恋愛について。現在、とある男性とお付き合いしている。初めて互いを知ったのはほんの1、2ヶ月前のことなのだが、LINEのやり取りや実際に会ってした会話を通じて瞬く間に意気投合し、先日正式にお付き合いする運びとなった。今のパートナーは非常に聡明な人で、本当に会話していて楽しい。また彼は、ロシア語その他の語学が堪能で、ロシア語に関する様々な興味深い話をしてくれるため、言語学出身としては非常に刺激的な示唆を受けている。さらに彼とは酒や食べ物の趣味も合うので、色々な名店を巡って共に舌鼓を打つ経験は非常に心地のよいものである。彼は関東在住のため遠距離恋愛になってしまうのだが、当分月1〜2回はお互いの居住地を往来することになるので、それほど寂しい心地はしない(無論できることなら毎日会いたいが)。この巡り合わせに感謝しつつ、末長く幸せに行きたいものである。
概要としては以上のとおりだが、本当はここには書き切れないだけのことが起きている。詳しくは直接お会いできる機会にお話しできたらと思う。
ある土地を愛することについて 例えば秋田愛を語るにあたって
いつだかに、ある秋田のインフルエンサーによる多分に扇動的なX(旧Twitter)の投稿があって、それが少なからぬ反感を買っていたのを見かけた。元の投稿はすでに削除されてしまっているが、曰く、平成の大合併前に秋田県を構成した旧69市町村の名称を言えなければ秋田愛を語る資格がないとのことであった。まあ確かに、秋田県の旧69市町村を滔々と誦じてみせるならばその人は確かに秋田を相当程度愛しているんだろうねと言えるが、その逆、つまり、秋田を愛しているならば秋田県の旧69市町村の名称を当然知っている、は成り立たないだろう。なぜならば、ある土地を愛するということは、そこに住む人を愛する、そこで育まれた文化を愛する、そこを作り上げている自然を愛する、そこで築き上げられてきた歴史を愛する、もしくは、名付けようもないものではあるが、しかし確かにそこに現存する何かを愛する、これら全ての愛の様態を総合して考えられるべきものであって、決して知識の多寡によって判断されるようなものではないからである。
それにしても、どうしてこういったともすれば乱暴なことが発信されてしまったのだろうか。考えるに、ある土地を愛することが、その土地に帰属していることを示す徴(しる)しを多く持っていることと等置されてしまったのがあるのではないか。
ある空間(土地でも、国家でも、コミュニティでもひとまず何でもよい)を好むならば、我々はそこに帰属することを喜ぶであろうし、そこに帰属していることを自分自身のうちに確かめ、そして外部に示すための、徴しを持つことをもまた喜ぶであろう。そして、その徴しの良い例が今回のような、旧69市町村の名称といえるであろう。
確かに、ある空間を構成する要素の知識は、同郷人と余所者を分かつ重要な機能を持つだけでなく、その空間に属する人々のアイデンティティや連帯をも構成する。さすがに今回のような旧69市町村の名称ともなると、秋田県民でさえ知らない人も多いだろうから論外として、例えば秋田市民に限って言えば、サティ(現イオン秋田中央店)、ジャスコ(現イオン土崎港)、フォーラス(現秋田オーパ)、長崎屋(現MEGAドン・キホーテ秋田店)などの旧店名はおなじみだろう。これらの名称を知っているかで、秋田市を中心とする商圏に属していたか否かが決せられ、同時にアイデンティティと連帯が形成される。
しかし、大事なことであるが、まずひとつに、愛する土地に帰属していることを示す徴しはひとつだけでないし、もうひとつに、そもそも何かを愛していることを他者に殊更に示す必要はない。
ひとつめについて。土地を愛すると言ったって、それは一口に語り切れるものではない。繰り返すが、ある土地を愛するということは、そこにある人、文化、自然、歴史、その他名付けようのないもの、それらのいずれか(ないしすべて)を愛することであって、決して一枚岩ではない。いま住んでいる地域の文化的・行政的・歴史的由来も確かに大事かもしれない。でも例えば、秋田の海産物を誇りに思っている人にとっては、秋田の海で獲れるものについて多く知っていることが彼のアイデンティティや帰属意識を構成するはずである。農産物、工芸品、温泉、名勝、その他なんでも良いが、とにかく、愛にもいろんな対象があるというただそれだけの話である。
もうひとつ、おそらくこちらの方が重要なのだが、徴しはあくまで自分がある土地を愛しているということを事後的に確認するためのものであって、決して愛の必要条件ではない。愛というのは本来、ある対象を訳もなく端的に愛することから始まり、それからその対象を特徴づける様々なものを見出し、それを徴しとする、というのが本来の順番でないか。例えば、ある人を愛しているとして、こういう部分が好き、ああいう部分が好き、といった、好きな特徴を並べ尽くしても、なぜその人を愛しているのかを説明し切ることはできず、むしろ、ただ端的に愛しているから愛しているのだという事実しかないことと同様である。
だが、人は往々にして徴しの多さと愛の深さを混同してしまう。徴しは対象物への帰属を自身ないし他者に示すものであって、それ以上のものではない。確かに徴しは快をもたらす。しかしそれは、徴しによってアイデンティティや連帯を確認できることの快である。もし上記のような混同をしているならば、その人は、徴しによって存立し、集団に帰属できている自分自身を愛しているのである。また、愛というのは、そうまっすぐで明瞭なものではなく、曖昧で、屈折して、そして案外無理由なものである。ひょっとすると、人はそういった愛の気難しい側面を嫌うから、安易に徴しを求めてしまうのかもしれない。そういったことを悪いことだとは思わない。けれども少なくとも、本当にある土地を愛するというのはどういうことなのか、一度でも良いから、振り返るべきである。愛の語りえなさに、真摯に向き合うべきである。