形容詞を巡る問い(3)――なされるべきことの整理(1)

問いを分割、整理する

前回前々回の記事で話をあれこれ広げてしまったが、結局自分が最終的に主張したいことは何なのか、と言われると、大変恥ずかしいことに、よく分からないのである。こんな体たらくでよく修士論文が書けたものだと自分でも呆れてしまうが、幾つか言い訳をさせていただきたい。ひとつに、このテーマに関して、先行研究が極めて乏しい、というかほぼ皆無同然で、論文等で定番の「○○の理論ではこういう点が説明できないが、私の理論ではそれが説明できる(し、さらにはこの問題も解決できる)」という定石の論法さえままらなかった、というのがある。それともうひとつ、このテーマに関わってくる問題があまりに広かったのというのがある。テーマの選び方が悪かったのもあるが、そもそも、問題を分割するということが今までろくに出来てなかったのだと思う。「困難は分割せよ」といった趣旨のことをデカルトが『方法序説』で書いているが、全く仰るとおりと言う外ない。という訳で、今までの記事で述べてきたことをもとに、論としての構成はひとまずさておいて、問われるべき問いを分割、整理して列挙することとした。

先行研究では何が言われてきたのか

まず、少ないながらも先行研究で述べられていることを紹介する。古代ギリシャ語やラテン語における部分的読みについて扱った研究は、私の知る限りでは10も無いように思われる。しかもその内で、部分的読みの発生する理由に正面から取り組んだものは、多分3つだけである。それぞれ、互いに特段の関連のない研究で、散発的に問いが問われ、独立した解答がなされている。私は、それのすべてを間違っているとは言わないまでも、不十分であることを述べたいと思う。

限定的用法、述語的用法の違いは何なのか

数少ない先行研究の一つとして私が取り上げたいと思っているBakker(2009) “The Noun Phrase in Ancient Greek”において、本稿でいう限定的用法と述語的用法の定義が述べられている。その定義はそれなりに的を射たものであるが、語用論的視点に重きを置きすぎており(そもそもBakker本人がそこに立脚していると公言しているというのはある)、一部の説明に無理が生じているように見受けられる。具体的には、例外的な解釈をすべて限定的用法と述語的用法の二つに押し込もうとしているきらいがある。特に、部分的読みの説明はほぼ破綻している。個人的には、Kühner-Gerthの抽象的説明の方がよっぽど良いと思っているが、それはともかく、まずは限定的用法と述語的用法の二つについて、その機能の差異等を吟味する必要があるだろう。

ここで、前々回の記事で話したことを思い出してみる。述語的用法は、名詞と形容詞の間に主述関係のある文(これをコピュラ文という)とみなすことができる(場合がある)のだった。無論、このようにみなしても部分的読みが出てくる理由は説明できないのだけれども、ひとまずは、述語的用法の意義を知るために、コピュラ文の意味は何なのかというのを詳しく見てみることには、一定の意義があるはずだ。

コピュラ文の表す意味は何なのか

いつだかに、「数学の教師が『A is BはA=BじゃなくてA⊂Bなんだ』と言っていた」というようなツイートを見たことがある。この数学教師の言っていることは半分正しいのだが、残念ながら半分間違っている。というのも、コピュラ文は、A⊂Bとして解釈するだけでなく、A=Bと解釈すべき場合もあるからである。Lions are mammals.「ライオンは哺乳類だ」という文では確かに、「ライオン」⊂「哺乳類」と解釈しなければならない。「ライオン」=「哺乳類」だとすると、ライオンの集合と哺乳類の集合の要素(=外延)が一致することになってしまい奇妙であるし、イヌや人間も哺乳類の一種であるということと矛盾してしまうからである。けれども、The real criminal who murdered Mary is John.「Maryを殺害した真犯人はJohnだ」という文であれば話が違ってくる。「Maryを殺害した真犯人」が「John」の部分集合であると解するのは明らかにおかしい。というかそもそも、「John」は一人しかいないのにこれを集合として考えるのは直感的には奇妙である1実は、固有名詞が集合を指すという考え方もある。この場合、その集合の要素はその固有名詞が妥当する述語となる。固有名の記述説と呼ばれる立場である。。むしろ、この二者は同一であると考えるべきである2その証拠に、先程の文の主述を入れ替えたJohn is the real criminal who murdered Mary.という文はほとんど同じ意味である。。前者の解釈をする文は措定文、後者の解釈をする文は同定文と呼ばれ、これらはコピュラを用いた典型的な文である3ただし、措定文と同定文を区別して表現する言語もあるらしい。。こういった知見をもとに、コピュラ文の意味というのを一度ちゃんと把握しておこうと思う。

そもそも形容詞とは何なのか

さて、話の焦点を形容詞に戻すとして、形容詞がコピュラ文の述部に来た場合、どう解釈すべきだろうか。普通に考えれば、措定文と解釈するのが妥当だろう。つまり、These apples are red.という文なら、「これらのりんご」は、「赤いものを全て集めた集合」の部分集合である、というわけだ。ここで、redのような、性質を記述する形容詞は「その形容詞が表す性質を有するものの集合」を指している。実は、こういう考え方をすると、red applesという名詞句の意味を導出するのに都合がよい。すなわち、red applesの指す集合は、赤いものを全て集めた集合とりんごの集合の積集合であるとすればよいのである。

ここで我々は、かなり大胆な仮定をしていることを確認しなければならない。それは、「John」といった固有名詞は別として、「りんご」だとか「ライオン」だとかの一般名詞が集合を指しているのみならず、「赤い」といった形容詞も集合を指している、という仮定である。もちろんこの仮定自体ガバガバだという話はあるのだが、とりあえずこの集合論的アプローチに立脚すると、結局のところ、名詞と形容詞の違いはどこにあるのか?という問いが出てくる。

さらに厄介なことに、集合論的アプローチは「走る」等の動詞にも適用ができるのである。すなわち、「走る」は「ある時点において走っているものの集合」としてしまえば、「男の子たちは走る」は「男の子たち」⊂「走る」だし、「走る男の子たち」は「男の子たち」∪「走る」という具合に、形容詞の場合と並行的に分析できるのである。そうすると今度は、形容詞と動詞の違いは何なのか?ということになるし、最終的には、形容詞は名詞に近いのか、それとも動詞に近いのか?という問題も出てくる。この問題は本筋とはあまり関係ないものの、形容詞の性質を考えるため幾らかの検討を行う必要がある、かもしれないので、一応取り上げておく。

語順が形容詞の意味に与える影響は何なのか

前節で言及したことは考えだすときりがないので、ひとまず形容詞を「名詞を修飾することを主な機能とする品詞」と特徴づけておくこととしよう。問題は、その修飾の仕方である。

そもそも我々は、古代ギリシャ語における形容詞の語順がその意味に与える影響について考えていたのだった。だが、語順で形容詞の意味が変わるのは、何も古代ギリシャ語に限ったことではない。英語やフランス語でも、語順で形容詞の意味が変わったり(正確に言えば、制約されたり)することがある。Bolingerという言語学者が、かなり早くから英語の形容詞の語順について研究しており、彼の論文は今読んでも非常に示唆に富んだものとなっている(例えば、Bolinger(1967), Adjectives in English: attribution and predication)。

また、フランス語やそれに限らずスペイン語、イタリア語等のロマンス諸語では、形容詞の前置と後置がどちらも許されているが、やはり英語と同様語順によって意味が変わってきたりするので、これらについても積極的に研究が進められてきた。私はロマンス諸語のうちだとフランス語しかできないので、もっぱらフランス語についてのみ論考を進める。主に参照することになるのは、Bouchardの諸論文になる。

形容詞の2種類の語順に関して、かなり有力な統語論的説明を行っているのが、Cinque(2010) “The syntax of adjectives: A comparative study”である。このモノグラフは、語順がどのような意味対立をもたらしているがを極めて網羅的に紹介してくれているのでそれだけでも大変有難い。統語論については私はあまり詳しくないので深い部分には立ち入ることができないのだが、彼女が述語的な意味を持つ形容詞の源をreduced relative clausesと考えていることは、今までの議論に符合するという点で特筆に値するだろう。名詞を修飾する形容詞が実は従属文(コピュラ文)の述語なのだという発想は、別に真新しいものでもなく、それこそチョムスキーの最初期の生成文法理論で既に言われていたことらしい。しかしそれで全部を説明できるわけではないということは早々と(それこそBolinger等によって)指摘され、あれこれあった訳なのだが、とにかく重要なのは、形容詞が名詞を直接修飾しているようで、実はコピュラ文の述部として解釈するべき場合があるということである。言うまでもなく、我々が考えてきた述語的用法に対応する。しかし、最初に言ったように、古代ギリシャ語には部分的読みという、どうにも述語的用法の中に収めることが難しい読みが生じている。だから、Cinqueの説明によって我々の問題が一気に解決される訳ではないのだが、少なくとも、様々な言語で語順が形容詞の意味決定に重要な役割を果たしていることを確認することはできるし、それは我々の問題を解く手がかりを与えてくれるかもしれない。

なぜ一部の形容詞だけが部分的読みを持つのか

ここで、語順の話からいったん離れて、部分的読みを持つ形容詞がどういったものなのかを思い返してみる。まず、ラテン語の文法書では、summus「最も高い」といった最上級形容詞、それとmedius「真ん中の」等がそうだと述べられていた。古代ギリシャ語のそれだと、mésos「真ん中の」、ákros「最も端の」、éschatos「最も遠くの」の三つが限定的に列挙されているだけだった。実はもうちょっと無いわけではないのだが、いずれにせよ、これらだけが特異的に部分的読みを持つのである。

どうしてこれらの形容詞だけが部分的読みを持つのであろうか? 別に「赤い」という形容詞が部分的読みを持っても論理的におかしくはない。だって、「赤い」と「りんご」だけで、「そのりんごの赤い部分」を指すことだって可能ではないか。しかし現実はそうではない。我々の言語ではどうしても、”of”や「の」といった所有格や、”part”や「部分」といった名詞を用いなければならないことになっている。さらにややこしいことに、ラテン語や古代ギリシャ語でも、所有格(正式には属格という)を使って部分的読みに相当する表現をすることができる。具体的には、古代ギリシャ語を例に取れば、mésosを中性名詞化したméson「中央」に、属格の名詞をくっつければよい。

(1) méson tês póleōs4pólisの属格形。
middle(noun) of-the of-polis
「ポリスの中心」
(2) mésē pólis
middle(adjective) the polis
「ポリスの中心」=(1)

実は、中性名詞化した形容詞を用いた構文と、形容詞を述語的位置に置く構文と、これら二つの表現に、ほとんど意味の違いはない。そうなってくると、なぜmésosを中性名詞化して作った構文だけでなく、わざわざ形容詞を述語的位置に置く構文が存在するのか、いよいよ分からなくなってくる。この辺りになってくると、直接話者に聞いてみないと分からない問題に入ってしまうので、今や話者の存在しない古代ギリシャ語でこの問題を解決するのは望むべくもない。せいぜい我々にできることは、部分的読みをしうる形容詞の特徴を抽出することくらいである。そして、その特徴というのは、今のところ「最上級の意味を持つ」くらいしかない5mésosについては後でちゃんと論ずる。。そういう訳だから、ここからは、形容詞の最上級の意味について考察し、何とかして部分的読みを生じさせる動機を発見しなければならない。(つづく)

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