僕が嫌いなゲームと、僕がそれを嫌いな理由について

昔は散々ニンテンドーやらプレステやら遊び散らしていたくせに、今の僕には嫌いな(苦手な?)ゲームが色々ある。例えば大富豪、人狼、麻雀、リアル脱出ゲーム、等々。お陰で、知り合って間もない友人と親交を深めるべく複数人で何かするか、ってなったときは本当に困ったのを記憶している。

なんで僕はこういったゲームが嫌いなんだろう? ずっと考えていて、一旦答えが出たかと思ったら、また良く分からなくなって、を繰り返して、今になり、一応の回答が出たのかな、と思ったので、書く。 “僕が嫌いなゲームと、僕がそれを嫌いな理由について” の続きを読む

僕が鬱、ADHDと診断されて思ったこと

僕が鬱、ADHDと診断されて思ったことは、僕は鬱でADHDなのだということだった。何を当たり前のことを、と感じるかもしれないが、とにかくそうなのだ、と言うことしか僕にはできない。確かに、診断以前から、自分は鬱なのではないか、ADHDなのではないか、といった、うっすらとした疑念があったことはあった。しかし、「自分は○○かもしれない、○○なのではないか」と「自分は○○だ」との間にある溝は、人々が思っている以上に、深くある。 “僕が鬱、ADHDと診断されて思ったこと” の続きを読む

断片的なものたち(1)

数年前、原宿のデザフェスでやってた合同展に、スケッチブックを1冊だけバサッと置いて展示したことがある。タイトルは確か「断片的なものたち」。岸政彦著『断片的なものの社会学』からほぼそのまんま取ってある。

日常の何気ない一瞬や芸術的経験をぽつぽつと拾い上げ、1冊のスケッチブックに無秩序に詰め込んだもので、これだけだと、日々の風景をつれづれと描き溜めたものというどこか牧歌的な印象を与えるが、実際のところ、その制作風景は全くの逆で、それはそれはひどい突貫工事で描き上げられている。どれくらいひどいかというと、会期初日の朝まで制作していた。北千住のカフェでモーニングを貪りながら必死にペンを走らせていたのを今でも覚えている。こんな体たらくだというのに、なぜか、いやむしろ、こんな様だからこそ、この作品に妙な思い入れがあったりする。殆どは自分が撮った写真や有名な絵をそっくりそのまま描いただけで、オリジナリティのかけらもないのだが、そういったありきたりな題材を自分なりに切り取り、自分というフィルターを通過させ、表現したものというのは、どことなく愛おしさのようなものを感じさせてくれる。恐らくそれは、今はもう取り戻すことのできない日々、感性、まなざしを、率直に、かつ鮮明に残しているからなのかもしれない。

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