憂鬱なときに聴きたい憂鬱な曲10選

はじめに

愉快なときには愉快な音楽を聴くように、憂鬱なときには憂鬱な音楽を聴くのがふさわしい。気持ちの塞いでいるときに、無理に明るい曲をかけたところでただただ疲れてしまうのであって、こういうときこそ憂鬱に耽溺し悲嘆に暮れるべきなのである。そんなわけで自分が憂鬱なときにいつも聴いている曲の中からおすすめを10曲抜粋し、紹介することとしたい。

Ralph Vaughan Williams “Whither Must I Wander”

近代イギリスの代表的作曲家による歌曲”Songs of Travel”の一曲。歌詞は冒険小説『宝島』等で有名なRobert Louis Stevensonによる。暖かさに包まれたかつての日々を過ごした旧家を求めて荒野をさまよう旅人の歌。旋律もさることながら哀愁を誘う歌詞にも注目されたい。

Ralph Vaughan Williams “Bushes and Briars”

同じくVaughan Williamsの男性四部(SSBB)合唱曲。イギリス民謡に由来する。恐らく若い男女の失恋を歌った曲。悲しさの中にもどこか瑞々しさを覚えるのは自分だけか。

Josquin Des Prez “O Virgo Prudentissima”

Josquin Des Prezは15-6世紀ルネサンスのフランスの作曲家。ミサ曲やモテットの他、数多くの世俗曲も残している。本曲はモテットのひとつで、「おおいと聡明なる乙女」を意味するラテン語のタイトルは無論イエスの母マリアを指す。

Solage “Fumeux fume par fumée”

アヘンを吸う者を歌ったこの退廃的な曲は、アルス・スブティリオル (Ars subtilior)という過度に晦渋な技法の駆使された曲を伝えるシャンティ―写本に収められている。作曲者であるSolageについてはほとんど知られていない。

The three ravens

イギリス民謡。餌を求める三羽のカラスが見た先には勇敢な騎士の亡骸が横たわっている。そこに雌鹿に変身した騎士の恋人が現れ、彼を葬って彼女も自ら命を絶つ、といった話。

Aleksandr Glazunov “Elegy”

ヴィオラとピアノのための小品。9/8拍子。舟歌のようにたゆたうピアノの伴奏の上にヴィオラの慟哭が歌われる。

Claude Debussy “Cello Sonata”

後期のドビュッシーは室内楽曲を3曲残したが、これはそのひとつ。3つの楽章全体を通じて目まぐるしく表情を変えるチェロの旋律はある種の躁鬱的な趣を与える。今回紹介した動画はある意味模範的な演奏だが、Mischa MaiskyとMartha Argerichによる録音は文字通り狂気を感じさせる名演(ただし途中のノイズに注意)。

Gabriel Fauré “Madrigal”

中期Fauréの作品。歌詞はArmand Silvestreによる。四部合唱。男声と女声とが互いに呼び交わす形式で進行する。男と女の屈折した愛の嘆きと謗りが美しい合唱によって歌われる。

Georges Catoire “Meditation”

「四つの小品 op.12」の一曲。冒頭は淡々としかし深遠に音楽が進行するが、およそ中盤を境として、「瞑想」という曲名とは裏腹に興奮や恍惚の高みへと上昇してゆく。

J.S. Bach “Chaconne”

無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番の終曲。8小節の主題が提示された後、30の変奏が怒涛の如く押し寄せる。よく「ヴァイオリン一艇で宇宙を描いた」などと誇張気味に言われたりするが、とはいえあながち間違いでもないのかもしれないと思わせるほどの深遠な作品。

コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について

「覆水盆に返らず」という言葉がある。一度やってしまったことは取り返しがつかない、という意である。確かに世の中は取り返しのつかないことに満ち満ちている。とはいえ、私たちは、たとえオレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまっても、落ち着いて床を拭いて(場合によってはカーペットを洗濯する羽目になるかもしれないが)、再びオレンジジュースを冷蔵庫から取ってきてコップに注げばそれで済むということを知っている。ただ、本当にそうか。

僕は覚えていないが、自分がごく幼いころ、オレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまったとき、別に誰に怒られたわけでもないのに「もうおしまいだあ~~~」などど叫びながら泣きまくっていたらしい。単なる子供らしいエピソードと言えばそうなのだが、僕にとっては今でも自身の世界認識に関する象徴的出来事だと思っている。 “コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について” の続きを読む

害悪論―記号作用の暴走に関する試論―

 

※おことわり これは未完成の断片です。また、勢いで書き下したものなので矛盾だらけですし、用語も不統一です。(2022.10.18)書いてから一年以上経って読み返してみると、考えていることが驚くほど全く変わっていないことが分かったので、前述のおことわりのような生ぬるいことはすっかり捨て去って、できる限り考えを深めようと思った。

履歴
(2022.10.18)命題に番号を振り、一部追記した。別にスピノザやウィトゲンシュタインのまねごとをしたいのではなく(当時そのようなものに陶酔していたことは認める)、今後の参照の便宜のためである。

 本論では、表象、記号、個体、属性、種を所与のものとする。(22.10.18)というか、疑うことの意義の乏しいものとして、それらの存在を素朴に認める。

1.1 表象の発出は、意思を前提としない。意思を背景としない表象がある。送り主の存在しない表象がある。

1.2 発出された表象は、受取手を前提としない。宛先の存在しない表象がある。

1.3 宛先も送り主も存在しない表象があり、それはすなわち自然、世界である。

1.4 表象の内容は、送り主の意思に依存しない。テキストは遊離する。

1.5 記号は、世界を何らかの仕方で代理する表象である。 “害悪論―記号作用の暴走に関する試論―” の続きを読む

pythonの参照の考え方に頭を抱えた話

前提

古典ギリシャ語のテキストを表すには、大量のダイアクリティカルマークが必要になります(Polytonic Greekといいます)。今でこそUnicodeがあるおかげで表示自体は難なくできるけれども、昔はそんなことができる時代でもなかったし、そもそも今だって入力することは容易でないし、そういうわけだから、ASCII文字でギリシャ文字を表現しましょう、というのでBeta Codeというのが考案されました。例えばπροϊέναιであればPROI+E/NAIといった具合に表記します。今回、Beta CodeからPolytonic Greekに変換するプログラムを組みたいと思い、なんかいい感じのないかな~と、こちらからあるPythonコードを拾ってきたわけなのでした。 “pythonの参照の考え方に頭を抱えた話” の続きを読む

僕の自己肯定感を台無しにした言葉への呪詛

僕はひたすらに自己肯定感が低い。幾度も友人や親族に不思議がられるのだが、とにかく自分には価値がない、自分の為したことには価値がないと思ってしまう。さらに言うなら、無価値どころか有害とさえ思うこともある。こうなってしまったのは、恐らく生来的なものがベースにあるのだろうが、それ以上に、ある強烈な出来事も関係していると、今では思っている。あの出来事によって、どれだけ自分が振り回されたか知らず、そして最近も、希死念慮という形で、安寧の日々を台無しにされた。こうやって、日々の健やかさを害される度に、様々な人に対してや、Twitterのタイムラインに愚痴を吐いて気を紛らわしていたのだが、やはり、音声言語やツイートのように、外界に放たれるや直ちに姿を消してしまう媒体を用いても、その時はいいのだが、心に留まらないから、いつだかにまた苦しみがぶり返してしまう。なので、進まぬ気を奮い立たせて、書くことにした。恐らく、この話聞いたことあるよ、という人が多いかもしれないが、左記のようなわけがあるので、どうかご了承いただきたい。 “僕の自己肯定感を台無しにした言葉への呪詛” の続きを読む