ある土地を愛することについて 例えば秋田愛を語るにあたって

いつだかに、ある秋田のインフルエンサーによる多分に扇動的なX(旧Twitter)の投稿があって、それが少なからぬ反感を買っていたのを見かけた。元の投稿はすでに削除されてしまっているが、曰く、平成の大合併前に秋田県を構成した旧69市町村の名称を言えなければ秋田愛を語る資格がないとのことであった。まあ確かに、秋田県の旧69市町村を滔々と誦じてみせるならばその人は確かに秋田を相当程度愛しているんだろうねと言えるが、その逆、つまり、秋田を愛しているならば秋田県の旧69市町村の名称を当然知っている、は成り立たないだろう。なぜならば、ある土地を愛するということは、そこに住む人を愛する、そこで育まれた文化を愛する、そこを作り上げている自然を愛する、そこで築き上げられてきた歴史を愛する、もしくは、名付けようもないものではあるが、しかし確かにそこに現存する何かを愛する、これら全ての愛の様態を総合して考えられるべきものであって、決して知識の多寡によって判断されるようなものではないからである。

それにしても、どうしてこういったともすれば乱暴なことが発信されてしまったのだろうか。考えるに、ある土地を愛することが、その土地に帰属していることを示す徴(しる)しを多く持っていることと等置されてしまったのがあるのではないか。

ある空間(土地でも、国家でも、コミュニティでもひとまず何でもよい)を好むならば、我々はそこに帰属することを喜ぶであろうし、そこに帰属していることを自分自身のうちに確かめ、そして外部に示すための、徴しを持つことをもまた喜ぶであろう。そして、その徴しの良い例が今回のような、旧69市町村の名称といえるであろう。

確かに、ある空間を構成する要素の知識は、同郷人と余所者を分かつ重要な機能を持つだけでなく、その空間に属する人々のアイデンティティや連帯をも構成する。さすがに今回のような旧69市町村の名称ともなると、秋田県民でさえ知らない人も多いだろうから論外として、例えば秋田市民に限って言えば、サティ(現イオン秋田中央店)、ジャスコ(現イオン土崎港)、フォーラス(現秋田オーパ)、長崎屋(現MEGAドン・キホーテ秋田店)などの旧店名はおなじみだろう。これらの名称を知っているかで、秋田市を中心とする商圏に属していたか否かが決せられ、同時にアイデンティティと連帯が形成される。

しかし、大事なことであるが、まずひとつに、愛する土地に帰属していることを示す徴しはひとつだけでないし、もうひとつに、そもそも何かを愛していることを他者に殊更に示す必要はない。

ひとつめについて。土地を愛すると言ったって、それは一口に語り切れるものではない。繰り返すが、ある土地を愛するということは、そこにある人、文化、自然、歴史、その他名付けようのないもの、それらのいずれか(ないしすべて)を愛することであって、決して一枚岩ではない。いま住んでいる地域の文化的・行政的・歴史的由来も確かに大事かもしれない。でも例えば、秋田の海産物を誇りに思っている人にとっては、秋田の海で獲れるものについて多く知っていることが彼のアイデンティティや帰属意識を構成するはずである。農産物、工芸品、温泉、名勝、その他なんでも良いが、とにかく、愛にもいろんな対象があるというただそれだけの話である。

もうひとつ、おそらくこちらの方が重要なのだが、徴しはあくまで自分がある土地を愛しているということを事後的に確認するためのものであって、決して愛の必要条件ではない。愛というのは本来、ある対象を訳もなく端的に愛することから始まり、それからその対象を特徴づける様々なものを見出し、それを徴しとする、というのが本来の順番でないか。例えば、ある人を愛しているとして、こういう部分が好き、ああいう部分が好き、といった、好きな特徴を並べ尽くしても、なぜその人を愛しているのかを説明し切ることはできず、むしろ、ただ端的に愛しているから愛しているのだという事実しかないことと同様である。

だが、人は往々にして徴しの多さと愛の深さを混同してしまう。徴しは対象物への帰属を自身ないし他者に示すものであって、それ以上のものではない。確かに徴しは快をもたらす。しかしそれは、徴しによってアイデンティティや連帯を確認できることの快である。もし上記のような混同をしているならば、その人は、徴しによって存立し、集団に帰属できている自分自身を愛しているのである。また、愛というのは、そうまっすぐで明瞭なものではなく、曖昧で、屈折して、そして案外無理由なものである。ひょっとすると、人はそういった愛の気難しい側面を嫌うから、安易に徴しを求めてしまうのかもしれない。そういったことを悪いことだとは思わない。けれども少なくとも、本当にある土地を愛するというのはどういうことなのか、一度でも良いから、振り返るべきである。愛の語りえなさに、真摯に向き合うべきである。

2 Replies to “ある土地を愛することについて 例えば秋田愛を語るにあたって”

  1. 秋田だと県民歌や大いなる秋田を歌えるか、長野だと信濃の国を歌えるかなどもその他で育った人たちのアイデンティティ構成に関わるみたいですね。その人たちにしかわからない暗号が一番わかりやすく排他的でちょうど良いのでしょう。
    東京には見られない、ある意味での地方独自の文化形成だなあと思って見てます。
    都会出身者よりも田舎は地域が密接に関わる以上、その中で育て上げられてきた人としての帰属意識の高さが地方は強い気がします。
    土地を愛するというよりも、土地に属しているという意識の方が田舎者は強いので、無意識に他者の語る愛と混同しているのではないでしょうか。

    1. お返事が遅くなり申し訳ありません。また、拙稿へのコメントを頂戴し感謝申し上げます。
      確かに、県民歌や大いなる秋田は「県民たること」を表象するための強力なツールだと思います(ブラウブリッツ然り、ノーザンハピネッツ然り、ゲームでのサポーター、ブースターの斉唱はある種の強烈なインパクトがあります)。
      「愛」と「所属」の混同についてもおそらくおっしゃる通りで、「ある集団に属していることを証明する証(あかし)をどれだけ持っているか」が問われがちである、という現実があるように思われます。

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