形容詞を巡る問い(2)――部分的読みに関する伝統的説明の検討

2020/04/29 ドイツ語の誤訳を一部修正しました。

前回のおさらい

前回の話を要約すると、こうなる。

  • mésos「真ん中」という形容詞が冠詞を伴う名詞を修飾するとき、置かれる位置によって次のような意味の差異が生じる。
(1) mésē1mésosの女性単数主格形 pólis
the middle polis
「中心のポリス」
(2) mésē pólis
middle the polis
「ポリスの中心」

前回でも言った通り、(2)での読みを「部分的読み」と呼ぶこととするが、どうして一部の形容詞では、この位置に置かれるとそのような読みになるのだろうか、というのが、初めに提示された疑問なのであった。

話はラテン語に飛んで

実はラテン語でも、部分的読みをする形容詞がある。いくつか文法書を参照する。

Allen and Greenough. (1903). New Latin Grammar for Schools and Colleges. Ginn and Company.

293. Superlatives (and more rarely Comparatives) denoting order and succession―also medius, [ceterus], reliquus―usually designate not what object, but what part of it, is meant:

順序や連続性を表す最上級形容詞(ごくまれに比較級形容詞)―さらにmedius「真ん中」、ceterus, reliquus「残りの」も―はしばしば、対象自身でなく、その部分が何であるかを指定する。

例としては、次のものが挙げられている(一部省略)。

(3) summus mons
highest hill(mountain)
the top of the hill「丘のてっぺん」
(4) in ultima platea
at furthest(last) place
at the end of the place「その場所の端で」
(5) prior actio
prior action
the earlier part of an action「行動の初期の部分」
(6) reliqua captiva
rest prisoners
the rest of the prisoners「囚われた者らの残り」
(7) in colle medio
on hill middle
half way up the hill (on the middle of the hill)「丘を登った半ばで(丘の中腹で)」

参考までに、もうひとつ。

Ernout, A., & Thomas, F. (1953). Syntax Latine. Klincksieck, Paris.

Quelques superlatifs ou formes assimilées ne s’appliquent qu’à une partie de l’objet designé par le substantif auquel ils se rapportent : summus mons

いくつかの最上級(形容詞)や同様の形式(形容詞)は、それらが修飾する名詞が表す対象の一部にしか適用されない。例えば、summus mons「山のてっぺん」等…

ここではすべて部分的読みで訳したが、もちろんそうでない読み、つまり限定的用法で読む場合もある。しかし、ラテン語には冠詞がないから、限定的位置や述語的位置というのを、少なくとも表面的には区別できない。だから、summus mons (highest mountain)は、「山のてっぺん(部分的読み)」と「最も高い山(限定的用法)」の両方の訳し方があり、どちらが適切なのかは文脈を頼りにするほかない。

まあそれはともかくとして、ここで興味深いのは、部分的読みをする形容詞として「最上級」の形容詞を挙げていることである。そういえば、ákros「最も端の」やéschatos「最も遠くの」も、最上級的な意味を持っているのだった。それを勘案すると、疑問がもうふたつ出てくる。すなわち、「なぜ古代ギリシャ語やラテン語では、いくつかの最上級形容詞が部分的読みを持つことがあるのか?」というのと、もうひとつ、「部分的読みをしうる形容詞の中に、なぜ「真ん中の」という意味の形容詞がぽつんと紛れているのか?」である。だが、これらについて正面から考えるのはしばらく先の話になると思う。

ひとまず問題提起はそこそこに、ここからは過去になされた研究を紹介することとする。

部分的読みに対する伝統的な説明

まず、古典的な文法書が、「ポリスの中心」といった読みを与える形容詞についてどのような説明をしていたのか、ざっと確認してみる。

Smyth, H. W. (1920). A Greek grammar for colleges. American Book Company.

When used in the predicate position(…) ákros (high) means the top of, mésos (middle) means the middle of, éschatos (extreme) means the end of. (p.295)

述語的位置に置かれると、ákrosは「…のてっぺん」を、mésosは「…の中央」を、éschatosは「…の端」をそれぞれ意味する。

理由に関する記述は一切ない。

Gildersleeve, B. L. (1900). Syntax of classical Greek. American Book company.

Adjectives of position when used partitively regularly precede the articular substantive. (vol.2 p.299)

位置を表す形容詞(=mésos等)は、部分的な使い方をするときは通常冠詞を伴った名詞句に先行する。

要するに部分的読みをするmésos等は述語的位置に置かれるということである。やはり、これ以上の説明はない。

これらふたつの文法書には、残念ながら私たちが求めている答えはなさそうである。ところが、次に紹介するKühner-Gerthの文法書では、それなりに核心を突いた説明がなされている。では、mésosに関する記述を見る前に、まずKühner-Gerthが限定的用法と述語的用法をどのように捉えているのかを見てみる。

Kühner-Gerthの説明

Raphael Kühner, Bernhard Gerth. (1898). Ausführliche Grammatik der griechischen Sprache. Hahnsche buchhandlung.

Wenn das mit dem Artikel versehene Substantiv mit attributiven Bestimmungen verbunden ist, so sind hinsichtlich der Stellung des Artikels folgende zwei Fälle zu unterscheiden:

冠詞を伴った名詞が修飾表現と結びつくと、冠詞の位置について次のような二つの場合に区別することができる

A. Das Attributiv ist mit seinem Substantive zu der Einheit einen Begriffes verbunden (vgl. der gute Mann = Biedermann, der weise Mann = der Weise) und bezeichnet einen Gegenstand, der anderen Gegenstanden derselben Gattung entgegengesetzt wird.

A.(=限定的位置) 修飾語は名詞と結合して統一された概念となり(例:良い+人=正直者、賢い+人=賢者)、同じ類に属する他の対象と対置された対象を表す。

形容詞の表す概念と名詞の表す概念とが合成され、これによって生み出された対象は、名詞が表す類―例えば「人」という名詞であれば人一般―に属し、かつ、その類に属する他の対象との対比が―例えば「良い」という形容詞が表す善の概念によって―生じるのである。

B. Das Attribut ist mit seinem Substantive nicht zu der Einheit eines Begriffes verbunden, sondern hat prädikative Bedeutung, indem es sich als das Prädikat eines verkürzten Nebensatzes auffassen lässt, und bildet nicht einem Gegensatz zu einem anderen Gegenstande derselben Gattung, sondern zu sich selbst, indem angezeigt wird, dass der Gegenstand für sich, ohne Rücksicht auf andere, in einer gewissen Eigenschaft zu betrachten ist.

B.(=述語的位置) 修飾語は名詞と結合しても統一された概念とならず、省略された従属文の述語として理解されるために、述語的な意味を持ち、同じ類に属する他の対象との対比でなく、自分自身との対比を生じさせる。これは対象それ自身が、他の対象を考慮することなく、ある特徴に関して注目されるためである。

ここでは、名詞は名詞、形容詞は形容詞で独立して概念を形成し、形容詞は名詞の述語として理解される。通常述語は、主語の指示対象の様態を記述するわけだから、ここでなされているのは、例えば「このりんごは赤い」といった文であれば、他ならぬ「このりんご」に関する言明、とりわけその色に関する言明である。「あのりんご」や「このバナナ」といった他の対象にはさしあたり関心はなく、さらに、「このりんご」に関しても、その大きさ、重さ、艶、味には焦点が当てられず、色という一側面を記述するのである。しかも「このりんご」は、木に実っていた頃はまだ青かったはずであるが、今現在語っている「このりんご」は、時間が十分に経過し熟れているため「赤い」のであって、時間という数直線上に無数に位置する「このりんご」たちは、今現在の「このりんご」との比較対象となっており、今現在の「赤さ」を担保しているのである。「自分自身との対比」とは、このことを言うのだと、ここでは解しておく。

これを踏まえて、mésosのような形容詞が部分的読みを持つ理由を以下のように説明している。

Sehr deutlich tritt der Unterschied der beiden Stellungen des Artikels A und B bei den Adjektiven: akros, mesos, eschatos hervor. Wenn die Stellung von A stattfindet, so haben diese Adjective eine wirklich attributive Bedeutung, und das Substantiv blidet mit seinem Attributive einen Gegensatz zu anderen Gegenständen derselben Gattung,

akros, mesos, eschatosといった形容詞では、冠詞の位置A及びBの区別は極めて顕著に顕れてくる。Aの位置(限定的位置)になる場合、これらの形容詞は確かに限定的意味となり、名詞は形容詞と共に、名詞が表す種に属する他の対象との対比を生じさせる。

Wenn hingegen die Stellung von B stattfindet, so haben die genannten Adjective prädikative Bedeutung, und das Substantiv wird sich selbst entgegengesetzt, indem durch das Adjektiv eine nähere Bestimmung (ein Teil) desselben angegeben wird.

対してBの位置(述語的位置)になる場合、前述した形容詞は「述語的」意味を持ち、この形容詞によってより詳細な指定がなされるために、名詞(で指示される対象)は自分自身と対比される。

「名詞が表す種」というのは、例えばpolisという名詞で言えば「ポリス」という抽象的なカテゴリーのことと解してよいであろう。つまり、「中央のポリス」は「ポリス」に属する様々なポリスと比較され、それらの「中央」にあることによって他のポリスとの対比が生じるのである。

対して「ポリスの中央」では、ポリスがそのポリス自身と比較されることになる。つまり、ポリスの様々な部分の中で、より「中心」にあるものが、ポリスのその他の部分と対比されている。

この説明はかなりいい線を行っていると思う。「自分自身との対比」という操作は、まず自分自身を無数に細分化し、これによって生じた断片同士を比較することで遂行される。つまり、「このりんごは赤い」であれば、時間軸上に伸びている「このりんご」のうち、「赤い」という属性が妥当する領域―ここでは現在としよう―を切り取り、「このりんご」が現在において「赤い」という属性を有しているという事実を表す。対して「ポリスの中心」であれば、今度は「ポリス」を二次元的な広がりと捉え、たくさんの要素に分解した後、それら要素の中で(平面的に)「中心」に位置しているものを取り出し、名詞句全体としてこれを指示するのである。

上記説明の現代的な解釈の方法

ここでいくつか断りを入れる。ひとつに、Kühner-Gerthが実際にそのような世界の描像を想定していたかは不明だということである。つまり、私はKühner-Gerthの記述にかなり飛躍した解釈を与えている。しかし、「自分自身との対比」という文言を整合性をもって適用するには、上記のような解釈が欠かせないものであると考える。

もうひとつ、時間的に切り取ることと、空間的に切り取ることは、論理的に(恐らく直感的にも)明らかに異なる操作だということである。「切り取る」という同じ動詞を用いてはいるが、「述語的意味」と「部分的読み」において行っている分析は全く別物で、統一した説明ができていないという謗りを受けてもおかしくないだろう。だがやはり、Kühner-Gerthの言うことを素直に受け取るのなら、そうするしかないのである。それどころか私は、ここにいう「切り取る」という動詞は多義ではないと考える。つまり、名詞等が指示する対象を四次元的存在、すなわち、三次元空間に延長を持ち、一次元的時間軸に一定の幅を持つ存在と捉えれば、「切り取る」という動詞は単一の操作を指すと解することができるであろう。そして最終的に、私は現代存在論における「四次元主義」を援用して、述語的位置における形容詞と名詞の関係について分析しようと考える。しかし、私は今現在四次元主義に関する知識が乏しく、かつ、元はといえば言語学に関する論述を目指しているのだから、このような形而上学的議論を行う前に、言語データに対する十分な分析を行う必要がある(だいいち、そもそも限定的位置に関する分析さえおろそかになっている)。なので、四次元主義に真っ正面から向き合うのは、恐らくかなり先の話になるであろう。

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