形容詞を巡る問い(1)――まずは自分の研究について

僕の修士時代の研究テーマは、ざっくり言えば古代ギリシャ語の形容詞であったのだが、とりわけ、修士課程の在籍期間の大半を、「中心」という意味である形容詞mésosのことを考えて過ごしていた。どうしてそんなことになったのかというのは後ほど説明するとして、まず、古代ギリシャ語、特に紀元前4世紀頃のアテーナイ(今のアテネ)で用いられていた古典ギリシャ語の形容詞がどういうものだったのかを簡単に説明する。

多くのインド・ヨーロッパ諸語が、名詞、代名詞、冠詞、形容詞に性・数・格1こういうのを文法カテゴリーと言ったりする。を持つことは良く知られているが、古代ギリシャ語も同様にそれらを備えていた。そして、形容詞や冠詞は、ある名詞を修飾しようとするとき、その名詞と性・数・格を一致させ、自身の語尾を変化させる。

次に問題になるのは、形容詞や冠詞を名詞に対してどこに置くのか、ということである。英語やドイツ語といったゲルマン諸語であれば、冠詞+形容詞+名詞という順番になるだろうし、フランス語やイタリア語、スペイン語といったロマンス諸語であれば、冠詞+名詞+形容詞という後置修飾が普通となる2ただし、往々にして前置修飾もなされ、名詞句全体の意味がガラッと変わったりする。詳しくはいつか説明する。。しかし困ったことに、古代ギリシャ語の場合、といってもこれはラテン語やサンスクリット語等の古代の言語に共通することなのだが、形容詞の位置はかなり自由である。前置も後置も許され、名詞と形容詞が離れた位置に置かれることさえある。とはいえ、どんなはちゃめちゃな語順でもよいというわけでもなく、こういう語順はありえないという最低限のルールのようなものはあるし、また、どういう語を先に置くか後に置くかで、文中で強調したい要素が変わったりするわけだから、「自由」という言葉を使うのは本当は正しくない。語順によって、文のニュアンスや焦点は変わるし、逆に言えば、「この部分を強調したい」と、ある話者/著者が望むならば、特定の語順が用いられなければならないだろう。

ここまでのことについては、数えきれないほどの学者によって様々な仕事がなされている。語順の分析という一種の文体研究は、ある文学作品を文学作品たらしめる秘密を解き明かすプロセスであっただろうし、それ以上に、文体は、あるテキストが誰によって紡がれたのかを知る重要な手掛かりでもある(発見されたテキストにいつも著者名が書いてあるとは限らない!)。だから恐らく、語順は昔から今に至るまで重要なテーマであり続けた。

そんなこんなで、こういった深遠な世界が言語学の片隅にあるわけだが、どうして僕がここに首を突っ込むことになったかと言えば、実をいうと、決して先人たちの如く、文学的美の深淵を探求しようと希求したからではなく、まして、著者不明の文章の断片に息づく著述家のエスプリを発見したいといったロマンに魅せられたからでもない。きっかけは、実に無味乾燥な文法上の約束事への疑問であった。

伝統的に、古代ギリシャ語の形容詞は、名詞を修飾する方法によって限定的用法と述語的用法の二種類に分類することができる。文法書などの説明に従えば、限定的用法の形容詞は、名詞が指すものに属性や性質を付与して、名詞句が最終的に指示するものの決定を助ける効果を持つ。対して、述語的用法の形容詞は、すでに名詞によって指示されたものの属性や性質をただ記述するものとされる。

人によっては、英文法にも同様の説明があったのでは、と思われたかもしれない。確かに、英文法にも同じ用語が登場するし、その機能も上で説明したものとそれなりに類似している。しかし、前者は名詞を直接修飾するが、後者は普通be動詞(以下、コピュラという)の補部に置かれ、文字通り述語として機能する。古代ギリシャ語の場合、述語的用法の形容詞は必ずしもコピュラの補部に置かれるわけではなく、主語や目的語として機能する名詞を修飾することがしばしばある。

そして、古代ギリシャ語の中でも古典ギリシャ語は、定冠詞を含む名詞句の場合、これら二つの用法を語順によって明確に区別する。次の(1)と(2)は、それぞれ限定的用法と述語的用法の例である。

(1) ho agathós anḗr
the good man
(2) agathós ho anḗr
good the man

この2用法には他にも別の語順があったりするのだが、とりあえずここでは省略する。また、今後の便宜のため、(1)の語順を限定的位置、(2)の語順を述語的位置と呼ぶことにする。ここで重要なのは、形容詞の語順が、ニュアンスや文体の差異ではなく、意味論的な差異を生んでいるということである。つまり、(1)でagathósは指示対象を決定するための属性を表しているのに対し、(2)ではho anḗr「その男」に既に備わっている属性を描写しているに過ぎない。

どうしてこういった解釈の違いが生じるのか、という問いへの解答は、割合に簡単である。実は、古代ギリシャ語ではコピュラがしょっちゅう省略されるので、(2)は「その男は良い」という意味の文と解釈することもできるのである。だから、(1)では形容詞が名詞を直接修飾しているので、形容詞は指示対象を詳細に定める機能を担うのに対し、(2)ではコピュラが省略されていると考えて、ho anḗrとagathósには主述関係がある、つまり、agathósはho anḗrの説明をしているに過ぎないと考えればよい。もちろん、この説明は言語学的には非常に乱暴であるが、大筋では間違っていないと思われる。もう少し精密な理論を持ち出せば、事態はそれなりに容易く説明できるだろう。

しかし、この問題はそう一筋縄ではいかない。一部の形容詞では、限定的位置にあるか述語的位置にあるかによって、名詞句全体の意味が全く変わってくるのである。その形容詞の代表例が、何を隠そう最初に出てきた「中心」という意味のmésosなのである。以下の例文とその日本語訳を見て頂きたい。

(3) mésē3mésosの女性単数主格形。語尾が性数格によって変化しているのである。 pólis
the middle polis
「中心のポリス」
(4) mésē pólis
middle the polis
「ポリスの中心」

(3)の「中心」はあくまで「ポリス」の性質ないし属性を述べているから、普通の限定的用法と呼んで差し支えないだろう。これに対し(4)では、「ポリス」の性質云々以前に、「ポリス」の一部分、それもその「中心」を表している。いわば、「ポリス」の中でも「中心」の性質を持った部分が指示されている。ちなみに、mésosの他にákros「最も端の」やéschatos「最も遠くの」といった形容詞も、同様の現象を起こすことが知られている。このような読みを、「部分的読み」と呼ぶこととしたい。

部分的読みが、述語的用法における隠れコピュラで説明できないのは明らかであろう。「ポリス」=「中心」4そもそもコピュラを等号に置き換えることは大雑把すぎるのだが、簡単のためあえてこうしておく。から、「ポリスの中心」なんて意味が出てくるとは思えないし、そもそも「ポリス」=「中心」という式自体、どういう意味を表しているのかよく分からない。

この問題に対する古今の文法書の説明はひどく単純である。すなわち、「これらの形容詞は、述語的位置に置かれると、こういう読み方をする」といったものである。

「これはあんまりなのではないか」と思った。というか、そもそも説明を放棄している。だが、二千年以上に至る西洋古典学の歴史の長大さと深遠さにもかかわらず、ごく最近に至るまで、部分的読みに対してはこのレベルの説明しかなされておらず、また、この問題に真面目に取り組む研究者はほとんどいなかったのである。

もちろん、一切先行研究がないわけではなかった。けれども、やはり意外なくらいに少なかった。しかもそれらのどれも不十分に感じた。だから研究した。しかし、当然のことではあるが、たった2年でどうにかなる問題ではなかった。それなりに奮闘はしたが、あれこれやって手元に残ったのはよく分からない修論のような見た目をした残滓だけで、僕はこれを半ば投げ捨てるように事務室に提出し、半ば逃げ去るように社会人への道を進んだ。

それ以来ずっと、秋田の土地で孤独を持て余しながら、あのみそっかす論文をどうにかしたいという気持ちがぐるぐる頭を渦巻いていた。そして今、遂にようやく重い腰を上げて、この問題にもう一度取り組もうという気持ちになった。

だが、どこから手を付けようか。気概は見上げたものだが、肝心の手掛かりはあるようでないような、現状ではあまりに心許ない知識しかない。しかも、学生時代と違って、論文や専門書へのアクセスが非常に難しくなっている。なのでとりあえず、最低限なしうることとして、これまで考えたり知ったりしたことを、論文になるかどうかはともかく、ここに記していこうと思う。

なお、予め弁解しておきたいのだが、まずこの試みはいい加減にやっていくつもりだということである。思索にすべてのリソースを投入できる状態にないことが大きな理由だが、本音を言えば、厳密なことを考えるのが正直言って面倒なのだ。とはいえ、こういうスタンスも悪いことばかりではないだろうと思っていて、ひとつに、考えすぎて筆が止まっては本末転倒なのと、もうひとつ、研究には、様々な現象を「何となく」のレベルで関連付けする「飛躍」が案外大事なのではないかと、僭越ながら考えていたりするのだ。無論、その飛躍は、最終的には綿密にかつ周到に架橋されなければならないが、少なくともそれは一番初めにやる仕事ではないし、最悪、自分は勝手なことを言うだけ言って、細かい作業は誰かに投げる、といったやり方もありなのではないかと思っている。無責任なのは承知だが、自身のやってきたことの供養を果たすには、最低限最初のうちはこういうお気軽さでやっていくのが一番なのだと思って、こうすることにする。

ただ恐らく、思考の緻密さとかいう以前に、先行研究の理解がそもそも間違っている、訳が間違っているといった狼藉がぽろぽろ出てくると思うので、もしそういったものを発見した際はその都度ご指摘いただけると大変有難いです。また、助言や文献の案内等していただけるとなおのこと有難いです。この試みがいつまで続くかは不明ですが、どうか、「おう、研究者になれなかった野郎がごちゃごちゃ何か言ってらあ」といった具合に、生暖かい目で見守っていただけると幸いです。草々。

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