私の「仕事」を巡る因縁の始まり

改めて自分の話をするが、僕は修士で2年間古代ギリシャ語の形容詞について研究をして、その後今は労働基準監督官として労働についてあれこれやっている。わざわざ修士でマニアックなことをやっておいて、結局仕事は無難に公務員なんかい、って我ながら思ったりするのだが、実を言うと、学生の頃から労働についてはぼんやり考えていたりしたのだ。ただし、注釈すると、古代ギリシャ語のἔργον「仕事」についてだったのだが。

まだ僕が言語学研究室に入る前、確か学部4年の頃、本郷の学園祭(五月祭)で言語学研究室が「言語学喫茶」なるものをやるというのでお前も何か出さないかと、言語学専修の某サークル同期が誘ってくれて、紆余曲折あった末、小論と呼べるかも怪しい一筆をしたためた。「ἔργον「仕事」を巡るエッセーもしくは小論」という、いささか歯切れの悪いタイトルで飾られたその文章は、かなり稚拙ではあるが、修士時代の指導教官、つまるところ僕の恩師に褒められたというのもあり、自分の歴史の中でほんのりきらりと光る存在でいたのだが、今こうして労働基準行政に携わる身となってから、かつてこういう文章を書いたのだと思うと、いやはやあんなもんを生み出してしまったのも何かの運命なのだろうかと考えずにはいられないのである。というわけで、かつてのその小論を、ここで一挙放出しようかと思う。例の如く、校正は一切せず載せる。暇な人、特に印欧語に興味のある人はご一読下さると幸いである。


仕事についていろいろ

周りを見てみると、同級生や先輩らが就活でとても忙しそうにしている。私自身、二年後には恐らく大学院を卒業して就職する身である以上、高みの見物をするつもりなど全くないのだが、それにしても、人々は並々ならぬ気概を持って就活というものに腐心している。ある高校の同級生は、普段酒ばかり飲んで羽目をはずし(この前家に入れたら散々な目に遭った)、Twitterでここにはとても書けないようなことを呟いているような男なのだが[1]、この前会ってみると、どうやら「自分を見つめなおす○○のヒント」みたいな題名の自己啓発本を読んで自己分析に励んでいると聞いた。人間はここまで変わってしまうのかと驚愕せずにはいられないエピソードである。

どうしてここまでして就活に励まなければならないかといえば、当然働くためである。そもそも、働いて何かを得ない限り人は死ぬ。最低限自分自身の糊口をしのぐために、働くことは欠かせないし、ましてや愛する家族、ないしそれに準ずる存在がいれば尚更である。要するに、人はまず自分のため、余裕があったら他人のために働かなければならない。

いや、それだけだろうか。例え己や周囲が満ち足りていようと、何らかの強大な存在が、人々に労働を要請する場合もあるだろう。論理的には、我々の住む社会、もう少し正確に言えば、労働を国民の義務として規定する諸国の憲法がそのような存在といえるかもしれない。だが実際には、そんなものを持ち出さなくとも、少なからぬ人々の心の中に渦巻く、私は働かなければ人として駄目なやつになってしまう、とかいった良心の呵責が、人々を労働へと駆り立てているのも事実であろう。

この良心が、今まで養ってくれた家族や、互いに支えあう関係である配偶者、今後の将来を担った子供たちに由来する場合はもちろん大いにある。だがしかし、こういったものとは独立に、働かないとなんだか申し訳ないなあ、というごく純粋な自責の念に由来する場合もまたある。では、何に対して申し訳ないのか。すがるところの神を殺された現代の人にとって、それは社会に張り巡らされた冷酷なまなざしと同調圧力と解されるかもしれない。そして、未だ神を殺されていない人と、昔を生きた人にとっては、それは天にまします偉大なる神の意思と解されるかもしれない。今時そうそう使わないだろうが、「お天道様が見ている」という言葉がある。神様は人々の悪事などお見通しだという戒めである。怠惰が罪だとすれば、先程言ったことはまさにこの言葉の通りである。どちらにしろ、家族でも友でもない何者かによって我々は、労働を為すことをよしとし、無精を働くことを咎とされている。

このことは古代ギリシャの詩人ヘシオドスの「仕事と日 Ἔργα καὶ Ἡμέραι」で歌われている。ヘシオドス曰く、神々は、飢えをしのぐ手段として人々に労働を授けたのだという。そして、労働は本質的に善であり、人々は神の与えたこの労働に励まなければならないという。古代ギリシャにおいて仕事というのは、単に自分含めた人間のためのものという独善的な視点を離れ、最高神ゼウスから与えられた一つの倫理としてある。

…と前置きが長くなってしまったが、本稿では「労働」、つまり古典ギリシャ語のἔργον(ergonエルゴン)「仕事」にまつわるいくつかのお話をさせていただくことにする。このἔργονは、先述の通り高名な詩人によって称えられたのみならず、ギリシャの地を離れ様々なヨーロッパ言語にその痕跡を残している。ここでは英語の例を主に紹介することにしよう。

 

ἔργονの生き残りたち

例えばGeorgeジョージという英語圏の名前。フランスではGeorgesジョルジュ、ドイツではGeorgゲオルクなどに対応しているが、いずれにしろこれらの名前は、古代ローマ末期の聖人ゲオルギオスGeorgiosが元となっている。彼の名前はγεωργός (georgosゲオールゴス)「農夫」という単語に由来していて、そしてさらにγεωργόςはγεο-(geo-)「大地」、-εργ-(-erg-)「仕事」、-ος(-os、単なる語尾[2])と三つの要素に分解することが出来る。大地で働くものだから農夫、というわけである。なお、γεο-という部分は他にもgeography「地理」、geometry「幾何学」という単語に見て取れる。それぞれの原義は「大地について書く」、「大地を測る」といったところであろうか(幾何学はもともと測量技術の一つとして発展したものである)。

分かりにくい例としてはsurgeon「外科医」。これは同義のラテン語の単語chirurgusに由来していて、この単語はχείρ(kheirケイル)「手」とἔργονとを合成したものである。

他にはorgan「臓器、(楽器としての)オルガン」。これはἔργονではなくὄργανον(organonオルガノン)「道具」という単語に由来しているが、語頭のeがoになっているのを除けば、ἔργονにそっくりなのが分かるだろう。実際この二つの祖先は同じであるとされているため、ここに紹介した。

 

以上、日常レベルの語彙におけるἔργονの痕跡を見てきた。ここからは科学用語の方に目を転じてみようと思う。何故かと言えば、ギリシャ語やラテン語は、長らくヨーロッパの知識人の公用語として使われたわけであるが、科学用語の多くはこの二言語の語彙に基づいて造語され、その中でもἔργονを使った用語の多くは我々にもなじみ深いものであるからだ。早速見てみよう。

科学におけるἔργον

まずはアレルギーallergy。これはἀλλός(allosアッロス)「他の、変わった」とἔργονから作られた造語であり、語義通りには「変わった働き」という意味になる。アレルギーとは、「抗原(免疫反応を引き起こす物質)に対して免疫反応が過剰に起こること」であるが、つまりは「本来体を守るためにある免疫反応が、通常とは異なる有害なものに転じてしまう」という意味がこの名前には込められているのである。

次にエネルギー。英語で書くとenergyだが、これはἐνέργεια(←εν “en” + ἔργον)という単語に由来している。enは英語のinやatと同じ意味なので、全体としてはin action、つまり、活動中にあること(もの)、という意味になる。なお、ἐνέργειαはエネルゲイアと読み、これはそのまま哲学用語として使われる。現実態とも呼ばれるこの言葉は、あるものの可能性が実現している状態を意味し、可能性を秘めているにとどまる状態を指すデュナミス(可能態)としばしば対比される[3]。このふたつはギリシャの高名な哲学者アリストテレスによって提唱された概念で、それだけに哲学、さらには科学においてもそれなりの存在感を示していて、エネルゲイアだけでなく、デュナミスについてもdynamics「力学」という言葉として残っているほどである。しかしよくよく考えてみると、昔と現代とで二つの意味がひっくり返っている。つまり、現実的なものである力に対して、力を生み出すための潜在的な能力であるエネルギーがあるはずなのに、原義の方はと言えば、エネルゲイアが現実的なもの、デュナミスが潜在的なもの、となっている。この混乱が生じたのは、当初のエネルギーに関する関心がもっぱら動的なもの、つまり運動エネルギーへ向けられていたことが原因として考えられる。ことの発端は、ドイツの哲学者ライプニッツが提唱した、今でいうところのエネルギー保存則で、これは二物体のもつ運動エネルギー(当時vis viva「生きている力」と呼ばれた)が二体の衝突前後で保存されるというものである。そしてイギリスの科学者トーマス・ヤングは、vis vivaに対応する術語として初めてenergyを用いた。この当時、熱エネルギーや電気エネルギーといった概念はまだ確立しておらず、運動する物体のエネルギーだけが議論されていた。このため、in actionを原義とするenergyがこのような術語として採用されたのも無理はない。その後、運動エネルギーと等価な様々なエネルギーが発見され、エネルギーは運動するものに限らず、むしろ静的なものに多く備わっている[4]ということが明らかになった。そしていつしか、力を生み出すための潜在的な能力という当初とは逆の意味をもつようになったと想像される。

無駄話が長くなってしまったが、もうひとつ、ἔργονに関係するものがある。それは、アルゴンという原子である。

アルゴンは原子番号が18で、いわゆる希ガスに分類される原子である。化学を勉強していない方には馴染みが薄いかもしれないが、実はアルゴンは窒素、酸素に次いで空気中で三番目に多い気体である[5]。用途としては溶接、食品の酸化防止のための充填ガス、ネオンランプなどがあり、意外と身近な存在であったりする。この気体は極めて安定で、他の物質と反応することがほとんどない。それゆえ、怠け者を意味するギリシャ語ἀργός(argosアルゴス)の中性形ἀργόν(argonアルゴン)が名前として採られたというわけである。このἀργόςは、否定の接頭辞ἀ-(a-)とἔργονからなる(εはαと融合して消滅した[6])。仕事をしないから怠け者、という、意味としてはとても分かりやすい単語であるが、その言語学的な成り立ちを説明しようとすると、厄介なことが起きていることがすぐに分かる。だが、これこそが比較言語学の真髄とも言うべき箇所だと勝手に考えているので、詳しく説明しようと思う。

 

ἀργόςの言語学的説明

実は先ほど出てきた否定の接頭辞ἀ-は、母音の前だとἀv-(an-)になってしまう。乱暴な説明をするならば英語の不定冠詞a, anみたいなものなのだが、厳密に言うと、もともとἀ-は音節的子音と呼ばれるものであった。音節的子音とは、簡単に言うと母音を伴うことなく音節を構成し得る子音のことである。例を挙げれば、静かにという意味の「シー!」や、考え事をしているときの「んー」などがある。ギリシャ語の場合、古代よりももっと前の時代にはἀ-もἀv-も共に*n̥-[7]という音だったとされ、これが後代になって、子音の前ではἀ-、母音の前ではἀv-と変化したのだと説明される[8]

この話が正しいのだとすると、少々厄介なことが起きる。そう、ἔργονは母音で始まっているのである。そうすると、ἀ-+ ἔργονの正しい形はἀργόςでなくἀνεργόςとなってしまう。これはどういうことなのか。先程の説明は誤っているということなのか。

いやそうではない。逆転の発想をしよう。つまり、元々ἔργονは子音で始まっていたと考えれば良いのである。突拍子もないことと思われるだろうが、これには確固たる証拠がある。実は、これまで(古典)ギリシャ語と呼んできたものは、紀元前四世紀ごろアテネ周辺の地方アッティカで使われてきたアッティカ方言と呼ばれるもので、一種の規範語として位置づけられている。そして、このアッティカ方言(とこれに近いイオニア方言)のἔργονが、他方言ではϝέργον(wergon)という形で使われていたのである[9]。ギリシャ語には本来/w/という音素があったのだが、古典期になるとアッティカやイオニアなどの地方では/w/は完全に消滅したのに対し、他の地方では程度の差こそあれ保存されている[10]。以上のことを考えると、ἀ-はϝという子音の直前なのでἀv-とならずそのままϝέργονと結合して*ἀϝεργονとなり、これがアッティカ方言になるとϝが消滅しἀεργον、最後に母音が融合してἀργόνという、我々が期待していた形が得られる。

 

比較言語学と印欧祖語

前節では、例外的な語形を他方言との比較により規則的に導き出せることを示した。だがしかし、この時点では同一言語の内部での比較に留まっている。ここからさらに他のヨーロッパ言語を視野に入れることで、インド・ヨーロッパ語族に属する全言語を子孫に持つ印欧祖語の存在を想定することができる。このようなアイデアに初めて到ったのが、十八世紀の言語学者、もとい裁判官のウィリアム・ジョーンズである。

彼は当時イギリスの植民地だったインド・カルカッタの上級裁判所の判事を務める傍ら、自ら主宰してインド考古学の研究機関を立ち上げた知識人である。また彼は、類まれな言語の才能に恵まれていて、早くからギリシャ語、ラテン語、ペルシャ語を含む数多くの言語を習得した。そんなジョーンズが、インド・ヨーロッパ語学、ひいては比較言語学の礎を築くきっかけとなったインドの古典語「サンスクリット」に出会ったのは、決して偶然ではないだろう。彼は古典語の豊富な知識を元に、サンスクリットとヨーロッパ諸語の間に有意な類似性があることを発見した。その類似性は、語彙のみならず、格変化[11]や動詞活用といった文法にも及んでいて、これはヨーロッパ諸語とサンスクリットなどのインドの諸言語の共通の祖先――印欧祖語――の存在を予見するものであった。彼の研究成果は驚嘆をもって受け入れられ、ここに比較言語学という言語学の一大分野が花開くこととなった。

以上、比較言語学の誕生を簡単に綴ったが、ここからは比較言語学の成果を簡単に説明する。

インド・ヨーロッパ語族全体を検討し比較再建した結果、ἔργονに対応する印欧祖語の再建形は*werǵom[12]と推定されている(かつてギリシャ語には/w/という音が存在していたことを思い出そう)。なんとこれ、英語のworkの語源でもある。仕事workとエネルギーenergyはこんな奥深いところで繋がっていたのである。

この他にも、アルゴンの説明で出てきた*n̥-は、ギリシャ語のみならず英語でも、unhappy「不幸な」などのun-やinfamous「悪名高い」などのin-といった接頭辞として、形こそ違えどなお現役で活躍している(ちなみに、前者は英語やドイツ語などのゲルマン語、後者はフランス語やイタリア語といったロマンス語で見られる形である)。さらに言えば、*n̥の母音を伴ったバージョンである*ne[13]は、ほぼすべての印欧語の否定辞として発展し、英語のnoやnotになった。

 

最後に

私は当初から、ἔργον「仕事」というたったひとつの単語がどれだけ我々の生きる世界に深く根ざし、そしてどれだけ広大な世界を背景に持っているのか、という事実を伝えたいと思っていた。それゆえ、このような文章を書く機会が与えられたのは私にとって非常に幸運であった。しかし、文才や知識の欠如が著しいこともあって、この好機を上手く生かせなかったような気もしている。そんな中、私のことをそれなりに励まし、それなりに褒めて、あと〆切をオーバーしても適当にスルーしてくれた言語学科4年の藤井には大変お世話になった。ここで改めて御礼申し上げる。また、言語学研究室の小林先生には、お忙しい中にも関わらず本稿に対する助言を頂き、大変感謝しています。最後に、この拙い小論を読んでくださった皆様にも、感謝申し上げます。

[1] 面接に行った会社にアカウントがばれていないか少し心配である。

[2] 精確に言うと、男性名詞であり、かつ単数主格であることを表す語尾である。

[3] これにもうひとつ、可能性が余すところなく発揮されその目的を達成した状態であるエンテレケイアというものがあるのだが、現代ではあまり重要視されていない模様である。

[4] 例えば、地上のあらゆるものは、運動せずとも地球の重力に由来する位置エネルギーを持つし、電池はそれ自体運動しないものだが、沢山の電気エネルギーを蓄えている。

[5] およそ空気中の0.93%がアルゴンである。少ない気もするが、最近地球温暖化で騒がれている二酸化炭素でもせいぜい0.04%しかない。

[6] 消滅したとはいったが、テキストによってはἀέργονという形もある。

[7] アスタリスクは、それが推定された形であることを示している。また、下の丸印は音節的子音を表す。

[8] なんでこんな七面倒くさい説明が必要なのかというと、他にもm、r、lといった子音が似た振る舞いを示すことが知られていて、これらを統一的に説明するのに役立つからというのがひとつある。また、他言語との比較にも有用である。これについては後述する。

[9] この語頭にあるエフみたいな形をした文字はディガンマといい、ラテンアルファベットのFの由来にもなっている。

[10] 同様の例はοἶνος-ϝοῖνος(woinos、英:wineと同根)にも見られる。

[11] I-my-me-mineのような、体言が文中の役割に応じて形が変化することをいう。

[12] ǵは、おおよぞ「ギャ」のような発音であったとされる。

[13] こういうのを標準階梯という。逆に*n̥のように母音がないときはゼロ階梯と呼ばれる。

 

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