害悪論―記号作用の暴走に関する試論―

 

※おことわり これは未完成の断片です。また、勢いで書き下したものなので矛盾だらけですし、用語も不統一です。

 本論では、表象、記号、個体、属性、種を所与のものとする。

 

 表象の発出は、意思を前提としない。意思を背景としない表象がある。送り主の存在しない表象がある。

 発出された表象は、受取手を前提としない。宛先の存在しない表象がある。

 宛先も送り主も存在しない表象があり、それはすなわち自然、世界である。

 表象の内容は、送り主の意思に依存しない。テキストは遊離する。

 記号は、世界を何らかの仕方で代理する表象である。

 個体はそれ自体内部に部分を持たない。個体Aを切断すれば、個体Aの部分a1…aiが生じるのでなく、端的に異なる個体BCが生じる。切断とは、分割でなく、新たな個体の創出である。

 属性は個体そのものには備わっておらず、個体と世界との界面に析出する。この析出という現象は、私たちが個体を認識することによって生じる。

 個体は属性の束で記述され得ないし、指示もされ得ない。

 個体はダイクシスによってのみ指示され得る。しかし、ダイクシスによっても個体は「記述」され得ない。個体はいかなる方法によっても記述され得ない。というか、記述する内容を持たない。

 個体Aの属性は、表象であるが、Aが発出した表象とは限らない。

 種を次の通り定義する。種はある存在としての資格を規定するラベルである。

 種は属性の束で記述され得ないし、指示もされ得ない。

 種はそれに属する個体の属性が一様であることを保証しない。

 種は属性ではない。

 確かに、種も属性も何らかの個体の集合を決定するが、種はその規定作用から自らの機能によって個体集合を定めるのに対し、属性はもっぱらその属性を有している個体だという恣意的で受動的な理由によって個体集合が決まるに過ぎない。

 種は必ずしもひとつの樹形図で網羅されるものではない。生物学的、社会学的、その他さまざまな観点からラベルが付与されうる。

 

 属性と種の差は、単に個体を記述しようとするか、個体群をより高次の概念に統合しようとするかの差に起因する。つまり、この差は認識論的差異である。

 おそらく、属性と種は、その構造によって区別することはできない。

 

 私の存在論が言えることはといえば、高々世界は理解不能なものとしてあり、それを私たちはまともに受け取ることができない、ということだけである。

 人間種に属する個体(人間個体)は、世界をありのままに受け取ることができない。受け取ろうとすれば、彼は狂人になる。

 もし世界が端的に私に受け取られるなら、そこではあらゆる表象が自身の同一性を確保しないまま現れそして消え、私はそれを喜びそして悲しむ。これは振幅及び振動数無限の躁鬱症である。これを耐え得る人間はおよそ存在しない。

 世界は、上記のような事情があるから、直接に思考され得ない。

 個体は、それ自体は世界の一部である。したがって個体は(通常の場合)それ自体受け取ることができない、

 人間個体は、統合されていないものを受け取ることができない。

 人間個体は、世界をそれ自体の次元において統合することができない。

 人間個体は、記号をいわば世界と自分自身とを隔てる膜として用い、世界の苛烈さから身を守る。

 記号は、世界について思考するための道具というよりも、世界の不可解さを無毒化するためのフィルターである。

 記号は、世界を必然的にであれ恣意的にであれ、統合し、仮象を形成する。

 属性とは個体に関する仮象である。

 属性による判断は一見誤謬であるが、個体それ自体が受け取れないという理性の限界がある以上、仕方なく正しいものとして認めなければならない。

 種による判断は、個体を介さないので原理的に無謬であるが、個体を規定しようとするならばそれは誤謬である。

 

 人は、より統合度の高い仮象を受け取るほど、より大なる快楽を覚える。もしくは、統合度の低い(ありのままの世界に近い)仮象を恐れて、統合を求め、そこに安堵を覚える。

 統合度は、事象の項の飽和度がひとつの指標となる。

 人は、より大なる快楽を求めて、より統合度の高い仮象を作り出そうと努める。しかし、その努力が快楽を帰結するとは限らない。

 人は、世界の一部分を、自分自身を宛先とする表象と誤って認識する。人は、表象に、「私に」という与格を誤って添えてしまうことがある。

 宛先のない表象は、与格不在である限りで不完全であり、それゆえ人は与格を補おうとする。

 与格添加は、統合度の漸増をもたらすにしても、統合前の部品として本来存在しない「私」を持ち出している限りで、誤謬である。

 

 宛先のない表象はともかくとして、宛先のないメッセージというのはコミュニケーションの意義からして矛盾である。

 

 世界とは、「今」「ここ」である。

「私」は、「今」「ここ」と結合し、私の中に世界が流入する陥入口をもたらす。

 

 記号は、世界を反復可能なものとして表象する。そのおかげで、私たちは世界を取るに足らぬものとして捉え、深刻な生を生きずに済む。

 反復可能ということは、高々有限個の属性で記述されるということであり、破棄可能であり、再取得可能であるということである。

 取るに足らぬということは、得ることによってそれほど嬉しくはならないが、逆に失われてもそれほど悲しくならないということである。取るに足らないということは、躁鬱の振幅を小さくし、私たちを躁鬱的疲労から遠ざけてくれる。

 記号は、線形的であり、有限の一次元的時間方向を持つ。それにより、私たちは躁鬱の振動数を小さくすることができ、また、多次元的な躁鬱を一次元なスカラー値に圧縮することができる。

 

 世界を制御することは、悪である。

 世界を所有することは、悪である。

 

 世界を制御し所有することは悪であるから、人は「権利」、「物権(物件)」なる概念を創出し、間接的な制御、所有により悪を回避する方便を発明した。

 

 規律は、内心を制御、所有しない限りで肯定される。

 

 愛と死は世界をむき出しのまま示すものである。代替不可能な「ほかでもない『その』人」が愛される。代替不可能な「ほかでもない『この』私」に死が訪れる。

 なぜその人を愛するのかを、客体の属性を列挙することで説明することはむなしい。

 かけがえのないということは、取り返しのつかないということである。世界の快と不快のアンチノミーから、これが帰結する。

 誰かを名指すことは、ダイクシス記号を用いる限りでその誰かに間接的に触れているだけだが、愛することは、一切の記号なしにその誰かとやり取りを行ってしまうことである。

 愛することによって、愛の主体のとって客体は記号の被膜を取り払われた存在として表れ始め、なまの個体=なまの世界として表れる。

 愛はなまの個体を制御し所有しようと欲する。それは潜在的な悪である。愛のもたらす罪悪感はここにある。

 愛は、消滅なき世界の流入としてあることによっても、主体を狂人ならしめる。

 上記のような制御、所有への欲望は、私たちを狂人へと近づけるものである。愛することの恐ろしさはこれに起因する。

 愛の客体は、属性がそぎ落とされているわけではないので、ある程度の記述はできる。しかし、属性がその表面を覆える以上に個体が肥大しているのである。ここにおいて記号は無力である。属性は個体の表面にいくらでも疎に分布し、客体は一切の統合を逃れる絶対的虚無として表れる。

 愛の客体は語りつくせない。語れば語るだけ、そのむなしさを知る。

 ゆえに、愛の客体はいかなる他者よりも遠くある。

 

神は、沈黙している。神は何事も語らない。その代わりに神は、「己を読め」とだけ指し示す。神は自分自身をテキストとして表す。そこにこそ、神の奥義が存する。

 

 倫理が不断に誰かに何事かを命ずるならば、彼は倫理的不眠症に陥る。もし彼を少しでも癒そうと欲するなら、いくらかの弛緩が必要となる。

 

完成された倫理は、自尊心を徹底的に破壊し、内心を蝕み、人間存在一般を破滅させるものである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。