僕が嫌いなゲームと、僕がそれを嫌いな理由について

昔は散々ニンテンドーやらプレステやら遊び散らしていたくせに、今の僕には嫌いな(苦手な?)ゲームが色々ある。例えば大富豪、人狼、麻雀、リアル脱出ゲーム、等々。お陰で、知り合って間もない友人と親交を深めるべく複数人で何かするか、ってなったときは本当に困ったのを記憶している。

なんで僕はこういったゲームが嫌いなんだろう? ずっと考えていて、一旦答えが出たかと思ったら、また良く分からなくなって、を繰り返して、今になり、一応の回答が出たのかな、と思ったので、書く。

まず、ゲームとはその本質からいって戦略的である。自分の置かれている状態、ゲームの参与者の状態及び思考の性向といったこれらの変項と、ゲームのルールという固定された(とされる)条件の下、最適な選択をし、以後それを繰り返す。このような記述の仕方は、人狼のようなターン制のゲームを念頭に置いているが、別にスマブラやサッカーのようなリアルタイムに進行するゲームであっても、この図式は概ねそのまま適用できるであろう。そして、ここから身も蓋もないことを言うが、僕はこういう類の戦略性が苦しくてたまらないのである。

なぜか。ひとつに、考えるべき事物が多すぎるからである。それも、その事物というのは非常に素早く僕のところに流れてきて、思考を強いてくる。

ここからは、人狼好きには申し訳ないが、人狼を例にして説明する。人狼では、まずある人はある役を与えられていて、それ相応のできること、できないこと、知っていること、知り得ないことがその人のもとにある。これだけでも、緻密な状況把握が不可欠になってくる。「この人は○○だからこの知識は持ちえないはずである」といったような命題を、参与者ごとに、彼の置かれた状態をもとに、ひとつひとつ丹念に導かなければならない。しかもその際には、彼とその他の参与者との関係も考慮に入れなくてはならない。

当然、人々はこんなことをいちいち考えてゲームに参与しているのでないのは知っている。人々はいわゆる「定石」と呼ばれる、様々な典型的命題から演繹されたいわば定理に当たるようなコンパクトな知識を駆使して、ゲームをするのである。そして、僕もおそらく、こういった「定石」をたくさん知れば、少なくとも人並みにはゲームに参与することができ、円滑にゲームを進行させることができるのだと思う。

しかし僕は、少なくとも、そういった遊び方に楽しみを感じられない。ひとつに、結局、定石の知識の多寡で、ゲームにおける優劣が決まってしまうからだ。それって、果たして何のためにゲームをしているのだろう、と思ってしまう。ただの知識の多寡の開陳をする場だとしか思えない、と、感じてしまう。そしてもうひとつ、人々が定石とも呼ばないような、さりとて原子的命題に近いとも言えないような、でもやはり基本的である知識が、僕には欠如しているからである。

これは単にめちゃくちゃ自分がバカだっていう話なのだけど、述べる。あるゲームで、自分が人狼に選ばれた。とりあえず周囲とあれこれ話をして、夕方になって誰かがひとまず処刑される。何とか処刑を免れた。夜になって、「夜になりました、人狼は顔を上げてください」とDMが言う。僕は「はい」と元気よく声を出して顔を上げる……

何故自分が人狼だと思われるといけないのか、それは基本的に人狼が「人狼と思われる参与者を処刑する」ことがルールだからである。だから自分が人狼だと明示する行為はしてはならない。

笑っちゃうようなことなのだが、こうやって考えないと、自分がやったことのまずさが理解できないのだ。自分の一挙手一投足が、自分についての何がしかを表示してしまう。そのために必死で、任意の発言、行動についての帰結を、人が考える以上に、考えなくてはならない。ただでさえ考えることが多すぎるのに、普通であれば考えなくても自然にみんなが習得しているような事実の多くを僕は知らないので、それらを考えて導かないといけない。そして疲れる。嫌になる。

これがゲームが嫌いな理由のひとつである。もうひとつは、本来不変であるはずのゲームのルールが、往々にして変化すること、もしくは一種の方言性を有することにある。

大富豪には様々なローカルルールがあるのは周知の事実である。有名どころでは、8切り、11バック、スペ3、10捨て、革命、縛りの範囲、その他ジョーカー等のカードの取り扱いについて等々。これらがひとつひとつあるか無いかで、最適解を得るための行動が変わってくる。O(2^n)のオーダーで戦略の数が爆発していく。

人狼も、役職がごまんとあるのだから恐ろしい。村人、人狼、占い師、霊媒師、ハンター、狂人、ここら辺が基本なんだろうけど、今ググってみたら、56種類の役職があるらしい。どういうこっちゃいなとなる。オーダーの計算なんてしたくない。

まず、ゲームを安定化させるためにルールは堅牢でなければならない、という信念がある。ここから、上記のようなローカルルールだとかの存在を否定することになる。また加えて、僕の信条に関して次のような事実が出てくる。それは、僕がある種の社会1極端だが、僕はゲームを社会の一種だと考えている。について、極めて保守的であるということである。変な話、ルールを変えられる度に裏切られたような気持ちになる。そもそも、自分たちが従うべきところのルールを自分たちで簡単に変えることに違和感がある。また、自分の思考の軸となっていたところのルールが容易く変えられてしまうことに、極度の不安を覚える。また思考を一からやり直さなければならないこと、そしてみんながそのようなルールの変更にそつなくついていって、自分が置いてけぼりにされていくこと、これらが恐ろしいのだ。

以上が、おおまかな「僕がある種のゲームが嫌いな理由」の説明である。これを読んで皆さんがどう思うかは分からないし、自分でもこれが自分の真意なのか実は不安な部分もあったりするのだが、ひとまず、今の僕はこういう具合の結論しか出せない。我ながらじめじめした結論だ。暇だったり、やっぱり違うと思えば続きを考えるし、暇でなかったり、興味が失せたりすれば、そこで立ち止まろうと思う。

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