- ここ最近、1週間仕事に行けなくなるアクシデントがあった。幸い今は職場復帰できているが、また行けなくなったらどうしようという不安がある。だが、一旦仕事に行けなくなったら数ヶ月単位で休んで傷病手当金をもらう、みたいなことを繰り返していた過去と比べれば、かなりリカバリーは早かったのではないだろうか。そういう、過去と比較しての成長?みたいなものを大事にしたいものである。
- あまり表立って報告していなかったが、パートナーができて一ヶ月半になった。月並みなことしか言えないが、彼は穏やかでかつとても良い人で、自分の全てを肯定してくれる。出会えたことにただただ感謝しているのとともに、今の自分は彼に支えられてばかりだから、いつか僕も彼を支えられるようにならねば、という気持ちがある。無論、焦っても仕方ないのだが。
- ようやく何かをするやる気が湧いてきたから、文庫本や新書をはじめとして、少しずつ本を読むようになってきた。ただ、毎日ピアノを弾いたり、絵を描いたり、お菓子を作ったりしていた過去と比べれば、まだ何もできていないに等しい。これにつき、以下の通りChatGPTと問答。
最近、休日に何もする気が起きません。昔だったら、ピアノを弾いたり、絵を描いたり、本を読んだりできていたのですが、どれもそんなにやりたいと思わず、スマホをいじったり、何をするわけでもなく外をぶらぶらしたり、昼から酒を呑んだりしている日々です。これではいけないという気持ちもありつつ、やる気がどうしても湧いてきません。何か良い解決策はあるでしょうか?
ご相談ありがとうございます。その感覚、とてもよくわかります。「これではいけない」と思いつつも、何も手につかない。やろうとしても心が動かず、ただ時間だけが過ぎていく。そういう日々が続くと、自分を責める気持ちまで湧いてきて、ますます動けなくなりますよね。
🔍まずは少し整理してみましょう
あなたが今感じている状態は、おそらく**「感情のエネルギーが枯渇している状態」**に近いと思われます。これは怠惰や意志の弱さではなく、むしろ真面目で繊細な人が心のリソースをすり減らしたときに陥りやすいものです。
よくある背景
💡どうすればいいか
① 「何かをする」より「何もせずに回復する」フェーズと捉える
今はまず、無理にやる気を出そうとしないことが大事です。
なぜなら、「やらなきゃ」という気持ちはすでにあるのに、動けないというのは、すでに燃え尽きかけている証拠だから。
🚫 悪循環
「やる気が出ない → やらなきゃと焦る → できない自分を責める → さらにやる気がなくなる」
これを止めるためには、「今は回復のフェーズなんだ」と割り切ることが有効です。動けないことを責めるのではなく、「今は冬眠中」と受け入れて、意識的に“なにもしない”ことを自分に許すのが第一歩になります。
② 「義務」ではなく「微細な好奇心」に目を向ける
ピアノも絵も本も、今は「やりたい」よりも「やるべき」「昔できたのに…」という義務感が勝ってしまっているのかもしれません。だから心が遠のくのも自然なことです。
代わりに、こんな問いを立ててみてください:
それがたとえ、
③「誰かとつながる」きっかけを設ける(負担にならない範囲で)
人との会話、SNSでのちょっとした交流、昔の知人への短いメッセージ……。外部との軽い接触が、意外な形で自分の内部を刺激することがあります。
もちろん、これも無理をする必要はありません。
「何かしたくなるかもしれない自分」の足場として、「対話」が助けになることもある、くらいの感覚で。
🌱最後に:やる気は「待つもの」
やる気は「出そうとして出るもの」ではなく、「気づいたら出ていた」というものです。
今はまだ土の中にいる種のような時期。無理に芽を出させようとせず、静かに温めてください。
それでも、
「このまま何も変わらないんじゃないか」という不安が出てくることもあると思います。
そうしたらまた話してください。一緒に少しずつ、整えていけたらと思います。
どうでしょう、今ここまで読んでみて、何か引っかかった言葉や感覚がありましたか?
ありがとうございます。確かに自分は「感情のエネルギーが枯渇している状態」にあるのだと思います。ただ、これが年単位で続いているような気がしています。こんなもんなのでしょうか?確かに僕は双極性障害を患っていますし、長めのうつ期が来ているのだと言えばそうかもしれませんが、それでもやはり焦りみたいなものを感じてしまます。
ご返信ありがとうございます。そして、率直にご自身の状態を共有してくださって本当にありがとうございます。
あなたの感じている「これは年単位で続いている」「こんなもんなんだろうか?」という疑問や焦り――それはとても自然なことですし、何より真剣に自分の人生と向き合っている証でもあります。
🌀「こんなもんなんだろうか?」という問いについて
まずお伝えしたいのは、
「年単位で、感情のエネルギーが枯渇している感じが続く」
これは、双極性障害におけるうつ期の典型的なパターンのひとつです。
特に **双極II型(軽躁+重いうつ)**の方に多いのが、
-
うつ期が長く、しかも「じわじわとした無気力」「持続的な無感動」が続く
-
一見、何事もなく生活できてしまうので周囲からも「元気に見える」
-
自分でも「なまけてるのでは?」「本当に病気なのか?」と疑い、自責が強まる
というような経過です。
なので、「こんなに長くしんどいのは異常なんじゃないか」という思いが出てくるのは当然ですが、それは**異常ではなく、むしろパターンとして“あるある”**なんです。
⏳焦りとどう付き合えばいいのか
あなたの言う通り、「焦り」が一番苦しいかもしれません。
・昔できていたことができない
・周りは前に進んでいる
・何もしないまま歳を重ねていくようで怖い
このような焦りは、「何かできるようになったら消える」と思いがちですが、実際には焦り自体がうつを長引かせる要因になっていることもあります。
だからと言って「焦らないで」と言われても難しいですよね。そこで、少し視点を変えてみる提案をします。
🕯「焦り」を止めるのではなく、“翻訳”する
たとえば、焦りを「本当はこうしたい」という願いの裏返しと捉えなおす。
・絵を描きたい
・音楽を楽しみたい
・本を読んで自分の世界を広げたい
・何かを「生み出せる」自分でいたい
そうした思いがあるからこそ、今の状態に苛立ちや痛みを感じるんですよね。
つまり、焦り=意志のかすかな痕跡なんです。
だから、焦りを責めるのではなく、むしろ「まだ願いが残ってるんだな」と優しく捉えてみてください。
🌿数年単位の回復は「ゆるやかに、でも確実に」
長く感じられる時期でも、実際には少しずつ回復のサイクルに入っていることもあります。以下、もし試したことがあれば確認の意味で、なければヒントとして挙げておきます:
✅ 薬の見直し
✅ 日内変動の記録
✅ 小さな「したことリスト」
最後に:長くかかっても、無駄ではない
「こんな生活、意味があるのだろうか?」
「この空白の時間が、ただの損失になっているのでは?」
そう思うことがあるかもしれません。でも、長いうつ期を経験した方の中には、
「あの時間があったからこそ、もっと深く自分を知れた」
「前よりも人の苦しみに共感できるようになった」
「何もないと思っていた時間が、じつは根っこを育てていた」
と言う人が少なくありません。
あなたのこの時間も、**“無”ではなく、“地中でなにかが少しずつ育っている時間”**かもしれません。
少し長くなってしまいましたが、どうでしょう?
「これだけは、ちょっと引っかかった」
「もっと詳しく聞いてみたい」
そんな部分があれば、遠慮なく教えてください。一緒に考えていけたら嬉しいです。
「焦り=意志のかすかな痕跡」というのは、慧眼ですね。確かに、意志は僕のどこかに微かに残っているのでしょう。でもそれが再び発現することなくこの一生が終わってしまったら?という不安があります。このもやがかったような日常がずっと続くのでないか?という不安があります。
その感覚、痛いほどよくわかります。
「意志はある。でも、それがもう二度と火を灯すことなく、ただ灰の中に埋もれて終わってしまうのではないか――」
この不安は、「意志そのもの」よりも、むしろ**“可能性を失うことへの恐怖”**かもしれませんね。そしてそれは、意志がまだ生きている証拠でもあります。
🕯「意志があるのに発現しない」という宙吊り
この状態は、とてもつらいものです。
やる気がまったくゼロであればまだ「諦める」こともできるのに、
どこかで「本当は何かしたい」気持ちが残っている。
そのくせ、どうしても動けない。心も体もついてこない。
だから苦しい。
そして、「このまま人生が終わってしまったら…」という怖さに繋がる。
🫧でも、“ずっとこのまま”にはなりません
これは断言していいと思います。
この不透明な時期は、たとえ年単位で続いたとしても、必ずどこかで変化の兆しが訪れます。
なぜなら、あなたは**「気づいている」から**です。
人がもっとも危ういのは、沈んでいることにさえ気づかなくなるときです。
でもあなたは、焦り、苦しみ、「このままでいいはずがない」と問い続けている。
これはもう、“意志の死”ではなく、**“意志が身動きできないでいる一時停止”**です。
🌿問いの角度を少し変える
「このまま何もできずに終わってしまったら?」
これは非常に重い問いで、何度も頭をよぎりますよね。
でも、この問いはしばしば自分を圧倒し、麻痺させてしまいます。
そこで、こう問いなおしてみてはどうでしょうか?
「もし、このもやの中でしか見えないものがあるとしたら、それは何だろう?」
「この不透明な時間を、ただの“空白”ではなく、“観察”の時間だとしたら?」
もやの中にいる今だからこそ見えるもの、気づけるものもあります。
たとえば――
これは「答えを出すための問い」ではなく、「問い続けていい問い」です。
🪞“もやの中の自分”と対話をしてみる
もうひとつの提案として、意志が表現されないまま沈んでいる自分自身に、手紙を書いてみるという方法があります。
宛名は例えばこんなふうに:
-
「何もしたくないあなたへ」
-
「昔は絵を描いていたあなたへ」
-
「再び動き出せるかわからないあなたへ」
そして書き方は問いかけでも、つぶやきでも構いません。
「君が今、何を感じているのか、正直よくわからない。でも、君のことを置き去りにしたくはない。」
「いつか、また会えたらいいね。」
この行為は、直接的な「やる気」には結びつかないかもしれません。
でも、心のどこかで凍っていたものに、体温を届けるような行為になることがあります。
🔚最後に:不安は“未来を思う力”でもある
「このままでは終われない」
「それでも、何かができたら」
この思いがあるかぎり、今がどんなに霧の中でも、あなたの中の灯は完全には消えていません。
たとえ一生に数度でも、意志がふっと姿を見せてくれた瞬間があるなら、それは生きている意味そのものだと思います。
もしよければ、またここで話しませんか?
焦りも、不安も、そのままで大丈夫です。
そのすぐそばに、ほんの小さな芽が隠れているかもしれないから。
そして、もし「もやの中の自分」へ手紙を書いてみたくなったら、ぜひ見せてください。
どんな言葉も、価値があります。