「一橋大学アウティング事件 裁判経過の報告と共に考える集い」に行って思ったこと(3)

前回のはこちら

ひとまず言えること 主に絶望について

ここまでで言ってきたことを整理する。

  • アウティングは、秘密を打ち明けた者が抱いていた信頼に対する裏切りであり、その限りで暴力である。
  • 重大な秘密を打ち明けることは、確かに受容する者にとって重荷であるが、だからといってその秘密を不特定多数や共通のコミュニティに暴露することは、次の2点のために最善でなく、結果、不意のカミングアウトを理由としたアウティングの正当化はできない。
    (1) 他の第三者機関などで打ち明け、悩みを聞いてもらうことができた
    (2) 暴露によって秘密を暴露された側は甚大な(それこそ秘密を背負わされることよりずっと大きな)精神的苦痛を被る
  • とはいえ、センシティブな事項について何の前触れもなく知らされ、また受容しえない好意を知り、秘密を守り通すことを強制されることはある種の理不尽さを伴っているような感覚がある。結局、告白やカミングアウトさえしなければ、最初から誰も不幸になることはなかったのではないか、という疑義が生まれてしまう。

ここにあるのは、Aというゲイの青年の存在という契機が、Zへ秘密の遵守、受容しえない好意の受容を強い、アウティングという取り返しのつかない行為へと駆り立て、AはZの裏切りと周囲の無理解、そして今や自分の秘密を知ってしまった周囲のまなざしへの恐怖に苦しみ、結果Aが死を選び、Zがその責任の一端を背負わされているというあまりに惨たらしい現実であり、そしてただそれのみである。

この現実をほんの一部分でも正当化することは不可能であるように思われる。AもZも、そして彼らの家族、友人、その他あらゆる関係者も、何ら苦しむべき理由無くして苦しみに苛まれ、そしてその傷は一生癒えることはないであろう。

現前にはただ絶望が横たわっている。このようなときに我々はどうすることができるのか。できることは、未来にこのような絶望がひとつでも減るようにこの世界を変えること、ないし、変えることはできなくとも、揺さぶることである。

絶望の先の話

絶望とは、存外に相対的な概念である。世界は確かに絶望に満ちている。そしてその絶望の種の多くは、抗いがたい「運命」によってそこら中に散りばめられている。しかし、その種を芽吹かせ、芽生えた絶望を育み、運命を呪うのは得てしてちっぽけな人間の所業である。我々がすべきことは、絶望の種がほしいままに芽吹くのをただ見届けたり、運命を呪うことではなく、その芽を摘むことである。もしくは、すでに産み落とされてしまった絶望を糧に、この世を問い直すことである。

なぜ、AはZへの恋心によって、これほどまでに苦しまなければならなかったのか。
なぜ、ZはAの真摯な心の発露に当惑し、思い詰めなければならなかったのか。
なぜ、周囲は、そして我々は、AもZも、救うことができなかったのか。

以上を今回の問題に即した問い方にするならば、こうなるだろうか。

なぜ、数々の性的指向は、世間でこれほどにまで腫物扱いされ、蔑まれているのか。
なぜ、人はアウティングに至ってしまうのか、予防するための手立てはいくつもあるのではないのか。
なぜ、人々は、この問題に無関心なのか。

そして最終的に問われるのは、次の問いである。

Aにふりかかったことと、Zにふりかかったこと、これら二つを理不尽たらしめているのは、一体誰なのか。
AとZの人生を呪ったのは、運命などではなく、他でもない我々ではないのか。

今後なされるべきことは、以上の問いについて真摯に向き合い、少しずつでも考え続けることである。幸い、この作業は、過去、そして現在の人たちによって着実に行われているが、それは誰かがやってくれているからそれでよいというものではない。この世に生れ落ちてしまった者全員が考え続けなければならないものである。「運命」という強大な存在に振り回される我々が、ほんの少しでも自由に、そして幸せに生きるための、数少ない手段の一つであるからである。他を呪い続ける日々から逃れるための、数少ない道の一つであるからである。そして、今は亡きAと、同様にしてこの世を去っていった方々に対する、唯一の弔いであるからである。

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