伊藤亜紗『体の居場所をつくる』2

伊藤亜紗『体の居場所をつくる』

上記で伊藤亜紗『体の居場所をつくる』についての感想を書いたが、書きたいことをうまく表現できなかったので、改めて思ったことを書いた。相変わらずのぎこちない文体は本書に全く似つかわしくないものであるが、とはいえ前回よりも少しは自分に素直になって書けた、ような気がする。

素直になっていいんだ

なにが衝撃だったかって、インタビュイーの方々が、自身の身体に訪れている現象をものすごい解像度で観察しているということと、それだけでなくその現象を素直に受け止めていることだった。いずれも僕にはまだできないことである。僕は自身に訪れるぞわぞわした感覚をただ「不安」というざっくりとした言葉でしか表現することができない。また、何かの拍子に不安が訪れるや、僕は苦しくなって硬直してしまうだけでなく、どうしてこんな些細なことで不安になってしまうのだろうと自分を責めたくなり、惨めな気持ちになってしまう。

ただ、こうなってしまっているのも、これまで、外界に影響されて心が揺らいでしまうことは意志薄弱のあらわれであり、恥ずべきことであるといって、心や体に現れてきたものをことごとく抑圧してしまった過去が影響しているに違いない。おそらく世の中で強いとされている人間は、自分の心の中に不安はありながらも、それに飲み込まれることなく上手く制御できているのだと思う。僕はその点は表面上理解していたが、制御の仕方がまずかった。不安をなかったものにしようとしていたのだ。僕は、僕が漠然と「不安」と呼びならわすものに向き合い、形や言葉を与える作業を経ないで、その本性を知ることなく押さえつけてしまった。強い人間でありたいがために。やがて、ずっと押さえつけられてきた「不安」が逆襲してきて、今に至っているのだ。

そもそも、不安を抑圧するということは、不安を感じている自分を遠回しにないがしろにすることである。「外界に影響されて心が揺らいでしまうことは意志薄弱のあらわれであり、恥ずべきことである」と書いたが、不安になる自分をとにかく責めてしまうのだ。「そんなことで不安になるのは軟弱だ」「不安に打ち勝ってこそ強い人間だ」……別に強くなる必要はない。「強くあらねばならぬ」は端的に幻想である。そんなことよりも大事なのは、自身に訪れるものをとりあえず認め、記述し、共存していくことである。

とにかく、素直になることである。「あ、別に自分の心を否定する必要なんてないんだ」という気付きが本当に新鮮だった。それと同時に、なんでこんな単純なことに気付かなかったんだろうと不思議な気持ちになった。多分これも、「強くあらねば」の呪縛に囚われて、前が見えなくなっていたせいであろう。

普遍的な説明に抵抗する

同じくらい印象的だったのは、別に原理だの原因だのが説明可能でなくたっていいのだ、という態度が通底していることだった。そもそも著者が本書のアプローチとして「N=1の科学」(p.6)を標榜しているように、やや乱暴に言ってしまえば、普遍性は求められていない。各人にそれぞれの症状や現象、心の動きがあり、それに対する記述がある。それだけである。

やはりこれも新鮮だった。僕は、心に生じたことは、その原理ないし原因がはっきりしない限り、正当な感情として認めないという、いささか潔癖めいた信念を抱いていた。「これがこうだから不安」等と説明できない不安を、ワンランク下の不安として処理してしまっていた。ただ漠然とした不安を、説明しえないもの、不気味なものとして、そのリアリティは認めつつも、何か忌むべき感情として取り扱っている部分があった。ただ、こういう態度は、説明のつかない不安を正当な不安として認めないという点で、やはり自分をないがしろにしているのである。理由のない不安だって、不安であるのは間違いないのだから、それ自体尊重されるべきだし、無理に理由を付け足す必要はない。

ところで、前項で「(そんなことよりも)大事なのは、自身に訪れるものをとりあえず認め、記述し、共存していくことである」と書いたのに対し、上記の言葉は矛盾するのでないかという懸念があるが、あくまで前項で言われている「記述」は「(不安などの)自分に訪れるものの姿かたちを事細やかに描き出すこと」であって、因果関係の網目にその訪れを位置付けることを意味しない。

結局何が言いたいのかというと、自分は自分の身体や心を説明するにあたって、そのマチエールの描写をすることなく、他の要因との関係を構造的に記述することに腐心してしまっていた。まるで感情や身体反応を他の要素に還元不可能な原子的要素であるかのように取り扱い、外界の刺激や先天的特質などの要因と結ばれる関係とそれらによって構成される構造のみが重要であると誤認してしまっていたのだ。

もちろん構造も因果関係的描像のもとでは大事だろう。ただここで問題になっているのは他ならぬ自分の心や身体である。決して原子的でない心や身体に対し、創造的な語りを与えることが、「自分でありながら自分でないような自分」を獲得するという意味での回復に繋がるはずである。残念ながら僕はこの語りを記述するための言葉をまだ知らない。これを知るのは今後時間をかけて取り組むべき課題となるだろう。

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