伊藤亜紗『体の居場所をつくる』

『体の居場所をつくる』という本が本当に素晴らしかったので、思ったことをメモしておく。

この本では、体に生きづらさを抱えた11人へのインタビューを元にして、回復すること(あるいは回復しないこと)や、体といかに付き合うか、等を巡る洞察が述される。摂食障害、ナルコレプシー、ALS等の障害を抱えた方、明確な病名を与えられていない方、社会的マイノリティ等、様々な方々が登場しているが、彼ら彼女らに共通していることとして、体がいかに世界を受け取り、それに反応するか(あるいはしないか)ということに対して極めて解像度の高い語りを行い、その上で、体と上手く付き合うための高度な実践をしているということがあり、終始それに圧倒された。

まず語りに関して。例えば、摂食障害を抱えていたヨウさんは、自身の症状を「海ほたる」というユニークな比喩で表現している。

さいきん思ったんですけど、高速道路みたいな引き返せない一方通行の道ってあるじゃないですか。その入り口で車を通さない方が拒食で、途中まで行けるんだけど無理矢理逆走しようとして、私みたいに逆走がうまくいっちゃうと、アクアラインの海ほたるみたいにUターンして帰ってこれちゃう(笑)。過食の方は、逆走はきらいだったり苦手だったり、どんどん食べられて、向こうまでいけちゃう。でもあるとき、通しすぎちゃった車をいったん止める必要にせまられて、過食と拒食を繰り返したりするのかなって。(p.52)

このインタビューをさらに価値あるものにしているのは、インタビュイーの語りに対する著者の創造的かつ的確な注釈である。

一方で、ヨウさんの海ほたるの比喩は、どこか解剖学的です。食道があり、胃があり、その先で腸につながっていく一本道。この内臓の配置とその役割について語っているのです。もちろん私も「胃がもたれる」「お腹がいっぱい」といった仕方で自分の内臓を意識することはあります。しかしそのときの「胃」は食道の先にある器官としてではなく、「みぞおちのあたり」のような単なる位置として理解されています。これに比べると、ヨウさんは、目に見えない身体内部の諸臓器とその関係について、きわめて具体的かつ俯瞰的なイメージを持っています。(p.53)

著者は、ヨウさんの「海ほたる」の比喩から、「目に見えない身体内部の諸臓器とその関係」という構造を抽出し、この先言及される、別のインタビュイーの語る身体イメージ(例えば、上記構造の不在)との対比を可能にしている。

続いて実践に関して。2022年夏にALSと診断された新井さんの場合、日に日に動かなくなっていく体に、「動く」ことのオルタナティブを見出している。新井さんは、筋肉自体は減少しても、関節の可動域を保つよう日々努めているのだが、これは、新井さんの実践してきた野口体操の持つ、「人間の身体=液体の入った袋」という捉え方に基づいている。通常、「動く」といえば、何らかの動作を能動的に行うことを意味するが、一方で水は、筋肉を持たないのに、重力に従い下に流れ、立っている生卵も、不安定で外力によって容易に倒れる。このような非生物も、外界の影響によって「動く」わけだし、むしろこういった「影響のされやすさ」は、「重力や摩擦、あるいは空気の流れといった大自然の原理に任せている」(p.188)ことのあらわれでさえある。新井さんは、人間の身体のこのような側面に、「動く」の新たな可能性を見出している。

体は能動的に何かを行う人体組織であると同時に、外からの力によって揺れ動かされることのできるやわらかい物体でもある。「筋肉がなかったら動けないのはALSの患者としいて本当に実感しているんだけれども、体の中が液体的に緩んでいれば、きっかけを他からもらって、中身は流動体にしとけばニョロ~ンとユラ~ンと動くことはできるわけです」。
新井さんにとって、この発想の転換をもって実践することが、ALS診断以降の日々の実験に、そして希望となっています。(p.188)

上記に挙げた語りや実践は、意のままにならない体を受容するきっかけだけでなく、生の新たな可能性をインタビュイーのみならず読者に気付かせるものである。

もう一つ、この本の重要な点として、「回復=病の原因を特定しそれを除去する」という因果関係ベースの図式への問い直しを行っていることが挙げられる。
通常、回復は、「病気の原因になる部位が存在し、それを特定し除去することで病気は良くなる」という前提をもとに語られる。しかし、必ずしも原因がはっきりするとは限らないし、そもそも原因を突き止めたところで(少なくとも現時点では)どうにもならない場合もあるし、仮に突き止めて除去しても決して元のようには戻れない場合もある。このように、因果関係的な捉え方では掬いきれない部分があり、往々にしてそれは平穏な生を脅かす。

ではどうするか。例えば前述のような語りや実践があるだろうし、それ以外にも、「自分はこうあってもいい」という自己の開かれを見出すことも、回復のひとつのあり方なのではないか。

しかし、ひとりの人間の回復を考えるうえで、その原因とされたものを敵とみなし、そこからの影響をなくすことに注力することは、場合によっては必要だとしても、それが必ず回復の道につながるとはかぎりません。「自分はこういう人間だ」と思い込んでいる人間像の外側、「自分はこうあってもいい」に出会うことが回復なのだとしたら、ナラティブを固定することは、場合によっては逆効果にもなりえます。回復が、単にその症状を獲得する前の自分に戻る一種のタイムトラベルでないのだとしたら、それは「自分でありながら自分でないような自分」を再定義するという未来へと開かれた前向きな営みであるはずだからです。(pp.66-67)

自分の話になってしまうが、自分は双極症の治療を行っている。躁状態と鬱状態を繰り返す病気で、遺伝的要因、環境的要因等が影響していると考えられているが、正確な原因はいまだはっきりしていない。幸い服薬により、ある程度症状を抑えることはできるが、それでもなお生活習慣やストレスにより急激に躁状態や鬱状態に移行してしまうこともある。だから、服薬を前提としつつも、規則正しい生活や業務量の調節、ストレス源から距離を置くなどの対策をしつつ寛解を目指していくのが、基本的な治療の道となる。

こういった、気分の波を引き起こす要因を取り除くアプローチはもちろん有効であるが、その手前で、双極症という病気をどう受容するかという問題が生ずる。基本的に双極症は完治せず(あまりこのことがはっきり語られることはないが)、寛解という形で症状の再発を防ぐ手立てを継続していくことになる。そのため、双極症を発症する前の自分に戻るというのは少なくとも現時点では望めないのである。これをどう考えるか。

さらに双極症治療においては、「低め安定」が目指される傾向にあって、理由としては軽躁・躁状態では行動が大胆になり、失うものが多いからだとか、鬱状態よりも軽躁・躁状態への移行の方が急速であり危険であるから等があるようである。しかし躁状態では、活動的になり、アイデアもたくさん出てきたりするため、往々にして患者は「躁状態の自分が本来の自分だ」と思いたがってしまう(どちらかというと自分もそういう傾向にある)。医者や社会から求められるこうあるべき自分(低め安定)と、危険ではあるがこうありたい自分(軽躁・躁)の乖離が、しばしば患者の葛藤を生じさせる。

本書がこれらの問題に対して直接の処方箋を与えるわけではないが、上記の引用をもとに考えるならば、「自分はこうである、こうあるべきだ」という(外部ないし内部からの)要求に対し、本当にそうなのかと問い直すこと(=固定されたナラティブに揺さぶりをかけること)、自己の外側にある思いもよらない価値観に触れ、「世界はこうでもありうる」から「自分もこうあっていい」を引き出すこと、こういった営みがヒントになるのかもしれない。

つまり、「自分は躁状態の時が一番自分らしくいられる」だとか、「自分は低め安定でいるべきなのだ」といった自己像があることは認めつつそれらを一旦括弧に入れて、「こういう生き方もある」「ああいう生き方もある」という実例を収集していき、そこから新たな自己のあり方を見出していく。多様な世界のありようをしなやかに受け入れる。これこそが、双極症からの回復に最も求められるものなのかもしれない。

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