憎しみのエネルギー、悪徳の礼讃

「自分を嫌う人間は自分に対するエネルギーが半端でない」、ポジティブ人間の代表とも言えるイチローの口から語られたこの信念が、ネガティブさにおいて他の追随を許さない思想家、エミール・シオランのそれと興味深い一致を示していることを、単なる偶然として片付けるのは早計であろう。

シオランは、死、特に自殺について好んで語り、これらに救済を見出した。ただ、人は簡単に死ねる訳ではないから、仕方なくだらだらとこの世を生きる他ないのだが、このような状況にあって彼は、憎悪や悪徳を我々の生の実践にとって極めて有益なものとして位置づけている。

生の利益に与し、わけても歴史の利益に与するならば、悪徳は最高度に有益なものとみえる。(…)私たちがこの現世に宿営する限り――おびただしい意志がからみあい、卓越、優先への欲望がうごめく「直接のもの」の世界に住むかぎり、小さな悪徳は有効性において大きな美徳にまさるのである。(『歴史とユートピア』pp. 99-100)

なぜ悪徳が美徳に勝るのか。それは、悪徳が人間のエネルギーの源泉に他ならないからである。まったく他人を憎めない人間は、美徳の誉れを受けるに値こそすれ、決して自らで物事を決することができない。そして生きる糧を得る競争に取り残され、気付けば衰弱してゆく。対して、憎しみに駆られた人間が常にエネルギーに満ち溢れていることは、誰もが知るところであろう。彼は常に他人を出し抜こうと努め、復讐心を心に燃やし、仇討の機会の訪れるまで刃を研ぐことを怠らない。

もし彼が自己を確立し、無気力をゆさぶり、ひとつの役割を演じたいというのなら、敵を作りだすがいい、敵をしっかりと掴んで、眠っていたおのれの残忍性をゆり起し、軽率にも聞き流した侮辱の思い出をいきいきとめざますがいい!(『歴史とユートピア』p. 110)

一度敵を作れば、今度は彼が我々にエネルギーを与えてくれる。彼もまた、我々と同様、憎しみに駆られながら我々の懐を常に狙っているので、気を緩める余裕などない。我々の憎しみが敵に注がれるや否や、それは敵を鼓舞し、進んで彼も我々に憎しみを注ぎ返す。この増幅回路が、人間関係を動かし、社会を動かし、歴史を動かす。

愛することをではなく憎むことを止めたとき、私たちは生きながらの死者であって、もう終りだ。憎しみは長持ちする。だから生の〈奥義〉は、憎しみのなかに、憎しみの化学のなかにこそ眠っているのだ。(『悪しき造物主』p. 135)

だから我々は、イチローやシオランのように、敵を愛さねばならない。ただし、彼を許すのではなく、憎むことによって。彼に尽くすのではなく、利用することによって。

この記事の大半は、大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミスト・シオランの思想』の記述に準拠して書かれています。

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