コップの中のオレンジジュース、またはこれ性について

「覆水盆に返らず」という言葉がある。一度やってしまったことは取り返しがつかない、という意である。確かに世の中は取り返しのつかないことに満ち満ちている。とはいえ、私たちは、たとえオレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまっても、落ち着いて床を拭いて(場合によってはカーペットを洗濯する羽目になるかもしれないが)、再びオレンジジュースを冷蔵庫から取ってきてコップに注げばそれで済むということを知っている。ただ、本当にそうか。

僕は覚えていないが、自分がごく幼いころ、オレンジジュースの入ったコップをひっくり返してしまったとき、別に誰に怒られたわけでもないのに「もうおしまいだあ~~~」などど叫びながら泣きまくっていたらしい。単なる子供らしいエピソードと言えばそうなのだが、僕にとっては今でも自身の世界認識に関する象徴的出来事だと思っている。

私たちは、オレンジジュースをこぼしてもまた冷蔵庫から取り出してそれを飲むことができる。しかし、1,000ミリリットル150円で買ったオレンジジュースのうち200ミリリットルをこぼしてしまったとすると、150 × 200 / 1,000 = 30円は経済的な損失として不可避的に生ずる。そしてその200ミリリットル分のオレンジジュースは、本来味わわれ栄養となるべきものとして製造されたものであるにもかかわらず、口に入ることなく、床にぶちまける分として消費されてしまっている。さらに、もっと根源的なこととして、先程までコップに入っていた「『この』オレンジジュース」は、永遠に失われたままである。いくら同じロット番号のオレンジジュースを買ってきてきっちり正確に200ミリリットル計量してコップに注いだとしても「『この』オレンジジュース」は、決して戻ってくることはない。オレンジジュースだって、やはりこぼせば取り返しがつかないのである。

この代替不可能性、すなわち「これ性」(thisness, haecceity)は、あらゆるものに張り付いている。どのようなものも、原理的にはほかの何ものとも取り換えが利かない。しかし、これだと当然困ったことが生ずる。自分は言語が専門だから言語の話をすると、例えば私がある時点で言った「りんご」という言葉と、別の時点で言った「りんご」という言葉があったとする。それぞれ、発された時点、周囲の文脈、イントネーションなどは微妙に異なるが、それでもこの二つは同じひとつの「りんご」という言葉として理解される。もしこれらが全く異なるものと解されるのだとすれば、言語によるコミュニケーションはおよそ成立しなくなる(無論、前者の「りんご」がテーブルの上のりんごを指し、後者の「りんご」が木に生ったりんごを指しているのだとすれば、確かに両者はある観点から異なるものである。だがどちらも、[ringo]という音声形式を持ち、赤いバラ科の植物の果実を意味するということは共通している。揺らいでしまうとまずいのはこの意味においてである)。なので人間は、自らの使用する言語の基盤としてラングという社会的言語的共通理解を設けた。そのほかの分野でも、やはりある種の同質性が必要不可欠であったから、例えば民法においては(特定物債権との対比としての)種類債権、論理学においては(数的同一性との対比としての)質的同一性といった道具が発明された。

しかし、そのような道具立てを持っていない子供は、表象する個物のほとんど多くに代替不可能性=これ性を見出す。というか、あらゆるものはむきだしのままではこれ性を有しているのだが、大人たちにはこの遍在するこれ性が同質性の色眼鏡によって見えなくなっているともいえる。

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僕は、もはや記憶のかなたにある、同質性を知らない子供の眼差しに時々思いを馳せる。それが世界に関する未発達な描像なのだと言えばそうかもしれないが、しかしそれは同時に現在の日々に散らばる微細な悲しみの原像でもある。例えば、夏が終わり秋が訪れんとするときのあの寂寞が、毎年絶対夏が訪れるという事実によってかき消されることがないのは、来年になればひとまず必ずやってくるいつもの夏でなく、まさしく「この」夏の喪失を悲しんでいるからでないか。

夏ならまだ良いが、もっと深刻なのは愛である。ひとは愛するとき、大抵なぜその人を好きなのかの理由を探り出そうとする。黒い大きな瞳、快活な笑顔、楽しい会話、等々。だが、それらのどれも正確な理由でないように思われる。なぜなら、それらのうちいくつか、場合によってはすべてを取り除いたとしても、その人を依然として愛することができる可能性があるからである。だとすると、私がこの人を愛するのはまさしく「この」人だからだと言うしかない。愛の対象は、属性の束により成るのでなく、ただその人であるということによって他者と区別されているその事実により端的に成っている。

思うに、同質性の概念は健やかな精神に欠くべからざるものである。同質性を欠いた眼差しは、日々流転する世界を嘆き、絶えざる個物の生成と消滅に喜びかつ苦しむ。同質性は、流転に伴う喪失、すなわち「なま」の生の苛烈さを隠蔽してくれる重要な道具である。しかし、季節の移ろい、愛などの諸現象は、この道具の無力なることを教えてくれる。「この」がつくものたちは、同質性の被膜を突き破り、絶え間ない取り返しのつかなさが私たちに流入してくる。この体験は、端的に強烈なものであり、苦しみを伴うものである。しかし、そこには同時に得も言われぬ快楽ないし恍惚がある。

子どもが有する同質性なき眼差しを失えば、経験される世界は平穏そのものとなろうが、それは同時に任意の事物がのっぺりと反復される世界でもある。それを良いものと思うか。思う人もいるかもしれない。だが僕はこれに同意できない。たとえこれ性を纏った事物がいかに苦痛であろうとも、これ性を隠蔽し尽くした世界はおそらく、つまらないか、生きるに値しない。そのような世界は、高々有限個の範疇に分類可能な事物がそこに配置され、高々有限個の法則に基づいて生起するだけの世界である。そこで生を営むということは、そういった事物の生起をその法則に従ってなぞるだけのことである。

確かにそれは平和な世界である。しかしそのような世界にいかほどの意味があろうか。同質性の埒外にあるものこそ、生を彩る唯一のものであり、そしてそれはおそらく運命と呼ばれる。「運命を愛する」という言葉は、これ性の肯定を言い換えたものなのだと思う。幼い僕は、たかがオレンジジュースをこぼしただけで大泣きしたわけだが、とはいえその経験はもしかするとこの苛烈な運命を愛するための最初のレッスンだったのかもしれない。

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