一労働基準監督官としての所感――刑事捜査を例として――

刑事訴訟法第189条第2項には、こうある。

 司法警察職員は、犯罪があると思料するときは、犯人及び証拠を捜査するものとする。

ところで、労働基準法、労働安全衛生法には、それぞれ次のように定められている。

 労働基準法第102条 労働基準監督官は、この法律違反の罪について、刑事訴訟法に規定する司法警察員の職務を行う。
労働安全衛生法第92条 労働基準監督官は、この法律の規定に違反する罪について、刑事訴訟法(昭和二十三年法律第百三十一号)に規定する司法警察員の職務を行う。

ここにおいて、司法警察員は、差し当たり司法警察職員と同義と解してよい。となれば、結局のところ労働基準監督官は、労働基準法や労働安全衛生法等の違反の罪について、捜査を行う権限を持っているわけである。このように、通常の警察官ではないが、警察官と同等の権限を有する公務員を、特別司法警察職員と呼んだりもする。 “一労働基準監督官としての所感――刑事捜査を例として――” の続きを読む

僕が嫌いなゲームと、僕がそれを嫌いな理由について

昔は散々ニンテンドーやらプレステやら遊び散らしていたくせに、今の僕には嫌いな(苦手な?)ゲームが色々ある。例えば大富豪、人狼、麻雀、リアル脱出ゲーム、等々。お陰で、知り合って間もない友人と親交を深めるべく複数人で何かするか、ってなったときは本当に困ったのを記憶している。

なんで僕はこういったゲームが嫌いなんだろう? ずっと考えていて、一旦答えが出たかと思ったら、また良く分からなくなって、を繰り返して、今になり、一応の回答が出たのかな、と思ったので、書く。 “僕が嫌いなゲームと、僕がそれを嫌いな理由について” の続きを読む

正義の味方は必ず傷付くものだという話

労働基準監督官の仕事は結構ストレスのたまる仕事である。どうしてなのかとかはここではいちいち言わないが、とりあえず、労働基準監督官は、労働者の味方とか会社の敵とかそういう以前にまず、労働基準法令の番人であり、そしてそれ以上ではない、とだけ言って、暗にその苦労を仄めかすに留めることとする。

ちょっと色々あって(そしてこれから色々起きるので)、いつもの通り凹んでいたのだが、そんな時ふと、今は亡きやなせたかしの言っていたことを思い出した。

やなせたかし氏 日本人の正義とは困った人にパン差し出すこと(NEWSポストセブン)

正義とは実は簡単なことなのです。困っている人を助けること。ひもじい思いをしている人に、パンの一切れを差し出す行為を「正義」と呼ぶのです。なにも相手の国にミサイルを撃ち込んだり、国家を転覆させようと大きなことを企てる必要はありません。アメリカにはアメリカの“正義”があり、フセインにはフセインの“正義”がある。アラブにも、イスラエルにもお互いの“正義”がある。つまりこれらの“正義”は立場によって変わる。でも困っている人、飢えている人に食べ物を差し出す行為は、立場が変わっても国が違っても「正しいこと」には変わりません。絶対的な正義なのです。

正義って相手を倒すことじゃないんですよ。

正義を行う人は自分が傷つくことも覚悟しなくてはいけない。

心に響く世界最弱のヒーロー アンパンマンの正義 ~やなせたかしさんに聞く ― 自分も傷つかずに、正義を行うことはできない、という思い(日経トレンディネット)

もう一つの意味は、自分の顔をちぎって渡すヒーローということ。なぜかというと、正義を行うときには、自分が傷つかずにはできないという考えが、ぼくの中にあるからです。つまり、自分はまったく傷つかないままで、正義を行うことは非常に難しいということなんです。

正義というのは、そうした覚悟なしにはできないんです。もっと簡単なたとえでいうと、あなたが、電車に乗っていて隣の人がタバコを吸っていたとします。「ここは禁煙ですからタバコを吸ってはいけませんよ」と言うと「なんだテメェ、余計なことを言うな」と殴られることだってあるんです。(…)何故殴られたのか、それは正義を行ったから。正しいことをする場合、必ず報いられるかというと、そんなことはなくて、逆に傷ついてしまうこともあるんです。傷つくかもしれないけれど、それでもやらなければいけないときがある。

そして、正義というのは、非常に情けないところもある。ある会社が不正をしていたとします。社員がそれを内部告発すると、会社の不正はあばかれて正されますが、その告発した人はどうなるか。正しいことをしたのに、あいつは密告するといわれて、全部の業者から阻害されてしまうかもしれません。それで、まったく仕事がなくなってしまった人がいます。

ですから、アンパンマンは、顔を渡すたびにエネルギーが落ちていくんです。落ちていくけれども、それをせずにはいられないんですね。自分が犠牲になることもあるけれど、困っている人を助けずにはいられない。そういうことなんです。

寒い

 相変わらず修論を書きたくなさ過ぎて街に繰り出す。上野駅の広小路口より出て商店街に入り、暫くして右に曲がり、アメ横や道路を横切って、次いでオークラ劇場のある細い道を通って不忍池に出る。

 幾らか前には青く茂っていた蓮が、今はすっかり立ち枯れになっていて、僅かな生き残りはしわしわの灰緑色の葉を池に垂れていた。ビル群の上には薄黒い雲が一面に渦巻いていて、隙間から覗く空の青も、落ちかかる夜の帳にくすむ。しかし、雲のいくらかはその襞に夕日の赤と橙を捉え、穏やかに輝いている。

 僕はそれを良いものだと思ったので、思い立って、左右に交差する往来をすり抜け、池の柵越しに植わる木のそばに立って写真を撮った。

 「見てたーちゃん、空きれい」子供を抱きかかえた女性がこう言うのを聞いた。

 もう一人の通行人も、おもむろに鞄からスマホを取り出して同じ空の写真を撮った。

 人々のゆらぎによって不忍池の一角に集った空の鑑賞者は直ちに散り、二度と再び交わることはなかった。僕は近くのベンチに座って道行く人らを見物したが、僕を含めた三人を最後に誰一人としてあの空に目をくれる人はいない。別のベンチでは、二人の老人がじっと座っており、彼らの傍らには猫が、やはりじっとうずくまっていた。

 いよいよ夜が訪れて、風は益々寒くなり、空は紺に、雲は赤錆色にそれぞれ濁った。僕は帰ることにした。酒でも飲もうかと思った。

出会いについて

 おとといの夜のこと。あの日は上野の街を徘徊していた。安くて適度に人の入っている居酒屋を求めていたのだ。無論、安いのがいいことは言うまでもないが、程々の込み具合の飲食店というのは、そこに身を置くことで、自分自身の個が多数の中に埋もれることも、逆に際立てられることもなく、程よい適切な孤独さを楽しむことができる場所である。しかし、おひとりさまが行けそうなカウンターのある店は、どこも満員かさもなくばすっかりガラガラでほぼ店主と一対一か、といった具合であった。

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