「一橋大学アウティング事件 裁判経過の報告と共に考える集い」に行って思ったこと(3)

前回のはこちら

ひとまず言えること 主に絶望について

ここまでで言ってきたことを整理する。

  • アウティングは、秘密を打ち明けた者が抱いていた信頼に対する裏切りであり、その限りで暴力である。
  • 重大な秘密を打ち明けることは、確かに受容する者にとって重荷であるが、だからといってその秘密を不特定多数や共通のコミュニティに暴露することは、次の2点のために最善でなく、結果、不意のカミングアウトを理由としたアウティングの正当化はできない。
    (1) 他の第三者機関などで打ち明け、悩みを聞いてもらうことができた
    (2) 暴露によって秘密を暴露された側は甚大な(それこそ秘密を背負わされることよりずっと大きな)精神的苦痛を被る
  • とはいえ、センシティブな事項について何の前触れもなく知らされ、また受容しえない好意を知り、秘密を守り通すことを強制されることはある種の理不尽さを伴っているような感覚がある。結局、告白やカミングアウトさえしなければ、最初から誰も不幸になることはなかったのではないか、という疑義が生まれてしまう。

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「一橋大学アウティング事件 裁判経過の報告と共に考える集い」に行って思ったこと(2)

前回のはこちら

被告の立場から考える

前回の投稿では、アウティングが持つ暴力性というものをこれでもかとなじったわけだが、しかし、アウティングした側ばかりを一方的に断じることに、いくらかの後味の悪さが残るのも事実である。ある人の中には、次のような疑問が生じることがある。「カミングアウトや告白は、聞き手に心理的なショックを与えるのみならず、性的少数者であるという事実を秘密にすることを強いる行為であり、その点今回自殺したAにも問題があったのであり、Zがアウティングに至ったのにもある程度の正当性があるのではないか?」

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「一橋大学アウティング事件 裁判経過の報告と共に考える集い」に行って思ったこと(1)

去る5月5日、明治大学駿河台キャンパスにて「一橋大学アウティング事件裁判経過の報告と共に考える集い」というものがあったので、行ってきた。

御茶ノ水にある駿河台キャンパスには、リバティタワーという、校舎にしてはやたらと巨大な23階建てのビルがそびえているのだが、その1階にある1012教室で、この集会は開かれた。結構大きな教室なのだが、僕が到着した開会15分前には、すでに満員になっていた。300部用意されていたというレジュメも、僕の目の前でちょうど売り切れてしまった。泣く泣く手ぶらで入場した後も参加者はどんどんと押し寄せ、開会の時刻には、扉の外の廊下にまで溢れかえるほどにまでなった。この事件に対する人々の関心の高さを、改めて感じた。

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試み

 PCのフォルダを漁っていたら、あるワードファイルを見つけた。更新日時は2015/12/06。「結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり…」という身も蓋もないフレーズで始まっていた。この時期はLGBTに関する様々なニュースが飛び交っていて、卒論やら院試やらで追いつめられている自分は余計に神経を擦り減らしていた。そういうわけでやけっぱちになって、ちょっと前の自分みたいにもうカミングアウトしてしまおうとなり、どっかに放流することを目的として一気に書き上げられ、結局封印されたものである。書き方はそれなりに利他的である。しかし、こういう文章はどうせ自分本位にならざるを得ないものだから、悪く言ってしまえば人をだしにしてるというか、世間をあてこすっていうというか、そんな感じの雰囲気であった。以下本文。プライバシーに関わる部分は適宜変えてある。

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さまざまな補足

 例の呟きから一夜明けて、諸々の反響があったりなかったりしたのだが、とりあえず、混乱した脳をぎこちなく運転させながら昨日言えなかったこと/加えて言いたいことを補足する。文章がめちゃくちゃであるがそこはご愛嬌。

・やはり欲望は正しい形で語られないと心がねじ曲がってしまう。気がする。だから、今回カミングアウトしたお陰で外向けの願望を異性愛者っぽくわざわざ取り繕うこともなくなるから、いたずらに鬱屈した言い方をしないで済むようになり、少しは心持ちも良くなるはずである。最近同期が恋愛ラッシュで動揺してるのもあって燃やすだの○すだの物騒な言葉ばかり発してしまっていてこれは良くないなと我ながら思っていたのだが、今回を契機としてもう少し穏やかな生を獲得できればなあと祈っている。とはいえ非リア村を作る話は本当です。入村待ってます。

・今後、僕が産み出す、性を纏った任意の表現物についてフィルターをかけて見られるのではないかという不安がある。いわゆる性的表現に留まらず、性別を持った(あるいは持たない)生物が描かれる場合もこれに該当する。具体的にどういう不安なのかというと、そういう表現物を「同性愛者松延が見た/描いた世界」として見られるのではないかという不安である。確かに、僕という装置を通過し表象された女性は必然的に性愛的な部分を捨象され、僕という人間にまなざされ描かれた男性は不可避的に性愛の対象となりうる可能性を付与される。さらに、性的な要素を漂白されたものを描く場合、今度は僕が性的に曖昧な位置にあることが意識され、表示されうる。それらは僕が同性愛者であり表現者である限り避けようのない事実なのである。僕はそれらを認める。認めるしかない。しかし、僕が同性愛者であることから帰結される以上のことは一般的である。つまり、僕そのものに由来するものではなく、「Xは同性愛者である」という述語の表す意味に含まれるものなのである。それは僕から離れたものであり、僕より一般的な概念である。今適当に思い付いたのだが、表現とは形式において一般的であってもよいが、意義においては特殊でなければならないと思う。だから、先ほどの述語から導かれる意義というのを、僕の表現の意義とされたくないのである。要するに、あらゆる述語を剥ぎ取った、端的な項としての松延を表現者として見なしてほしいのである。あらゆる肩書きを取り払った、純粋な表現者として見なしてほしいのである。途中で何をいってんのか自分でも訳がわからなくなったが、要するに僕の表現に「ああここは同性愛者の目線から描かれたからこうなったんだなあ……」とかそういう評価を与えられるのはちょっとあれだなあっていうだけです。偉そうなこと言ってすみません。

・親戚には死ぬまでこの事について話したくない。この時点で僕の親戚を知る人はめちゃくちゃ大きな弱味を握ったことになるわけだが、どうかこの事についてだけは家族に口外しないで欲しい。母親こそ子の人生は他人の人生、というポリシーを持ってはいるが、父親に関してはしっとりと酒を飲む度孫を見たいという旨の発言をしてくるので※、胸が痛むのである。本気で偽装結婚を考えているくらいなので、決して褒められた両親ではないけれども、どうか僕のこんな性状でいたずらに心を掻き乱されて死んでいくことだけは止して欲しいという気持ちがある。

※僕が甥に関するツイートをしてたのを知っているひとは「えっ孫いるじゃん」って思われたかもしれないが、実は今の父親の血を継いだ子供は僕だけである。別に大したことは起きてないので詳細は省くし(再婚なんて珍しくないだろうから)、正直僕のことの方が家族にとってはよっぽど不幸だろうと思う。